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島田蕃根翁延寿会 島田蕃根翁 (シマダ バンコン オウ) 明41.4 / 1908 / 島田蕃根翁延寿会 (東京)
目次
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島田蕃根翁目次 第一篇 島田翁の 伝記及逸事 第一章 翁の生涯 一、島田蕃根翁 大内靑巒 二、島田蕃根先生誄辭 同 上 第二章 翁の大業と終生の希望 一、縮刷大藏經改版始末 島田蕃根談 二、太子堂建設趣意書 同 上 第三章 翁の逸事及終焉 一、島田蕃根翁の逸事 諸新聞記事 二、延壽會の祝辭 諸名家 三、延壽會後の島田翁及葬儀 來馬琢道記 第二篇 延壽會報告 第一章 準備 第一項 組織 第二項 世話人 第三項 新聞雑誌の記事 第四項 祝賀會の準備 第五項 案内状 第六項 新聞紙の記事 第七項 前支度 第八項 會場の配置 第二章 祝賀會 第一項 着席 第二項 報告 第三項 開會の辞 第四項 記念品贈呈 第五項 演説 第六項 寫眞撮影 第七項 餘興 第八項 茶菓 第九項 書畫會 第十項 世話人の散會 第十一項 新聞紙の記事 第十二項 來會者芳名及分類 第三章 残務 第一項 會務の報告 第二項 報告書の編輯 第四章 贈金の処分 第一項 翁へ寄贈呈額 第二項 残額への處置 第五章 会計報告 第一項 収支結算 第二項 寄贈金者芳名  附寄贈品者芳名 第三項 寄贈金額分類 第六章 終務の辞 以上 ======== 挿畫目次 一、翁の肖像と常用品 二、延壽會記念撮影 三、翁自筆の書畫
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翁の延壽會の紀念撮影 向かつて右より、第二列 前田博士、村上博士、南條博士、杉子爵、大内大内靑巒、島地黙雷、 兒玉大正、嶋田義、同婦人、同友春、同乾三郎、同麻四郎、第三列(二)島田三郎、(六)岡 田治衛武、(七)寺内大将、(八)毛利直良、(十二)棟居書記官 (ここに写真) 岡田氏の上は井上(圓)博士、井上の上は朝吹英二、島田夫人の上は○○伯爵、棟居の上 方眼鏡の懸けるは戸川残花。其上の白髭は国分靑崖、?の上は川瀬秀治、其右上田中弘之 其右鈴木?美、乾三郎氏の上は山根正次
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序言 本書は明治三十九年六月東京に開かれたる島田蕃根翁延壽會の報告書として發行すべき豫定なり しも、寄贈金の?分未だ終わらざるに、翁は永眠せられたれば、更に、翁の傳記其他を一括して、 本書を編纂し、聊か翁の面目を世に傳ふる資に供せり 翁の逸話、閑話等、輯め來れば數百頁に上るべく、之を編する、別に其人あるべし、仍て本書は、 其著しきもののみを集めて、同行者に頒つこととしたるのみ、讀者其杜撰を責むるなくんば幸也 延壽會々務の報告は、可成其要を摘まんとしたるもの、前後の事情を縷述したる爲め、少しく冗長 に失せり、但、如何にして延壽會の開かれたるやを語りおきたれば、却つて翁の性行の側面を現 はす材料たるを信ず、 一、報告書編纂に着手してより既に十數閲月寄贈金の處分決定せざる爲、荏苒今日に及びたるは、種 々の存するに因る、伏して大方の宥恕を仰ぐ 明治四十年十一月 島田蕃根翁延壽會幹事 謹識
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島田蕃根翁 島田蕃根翁延壽會編 第一編 第一章 翁の傅記 一、島田蕃根翁の生涯 大内靑巒演説 今日は、島田蕃根翁の延壽會と云ふ事で、私に、開會 の辞を述べると云ふ幹事さんからの御注文であります から、何か翁の經歴性行等に就いては、茲に御 列席のお方はほぼ御承知の事であらうと思つて、只一 言今日茲に此會を開くにいたりました次第を述べてお かうと思ひます、併し兎に角一應翁の系圓のことか ら、お話をしておきたいが、實は二三週前から、調べて おくと宜しいのでしたが、急に調べに懸つたことであ りますから其お積りで、お聴きを願ひたい、 先づ翁の系圓を調べてみるとずつと前のことはわかり かねるが、南朝の頃から明らかになつて居ります、即 ち後醍醐天皇の皇子懐良親王の臣に島田良義といふ人 があつて、親王に供奉して中國へ下つた時に病氣の爲 に、心ならずも、藝州に留りひさしく其處で療養をし て居つたが、終に歸参の機會もなく後に至つて、毛利 家に仕へることになつたが、是が翁の家の遠祖であり ます、其後永禄五年に、毛利元就と大友宗麟とが隙を 生じて、既に戦争にならうとした時に、朝廷に於てこ れを和解せしむる爲めに大友家の方へは久我大納言を 遣はされ、毛利家へは聖護院道増法親王がお下りにな つた、其時に毛利家に於ては彼の島田良義の裔孫たる 良盛と云ふ者に命じて道増法親王のお弟子にならしめ て、修験道を修行させ常に親王のお側におき、夫で京 都即ち朝廷と藝州毛利家との間に斡旋させたのが、即 ち翁の家が修験道俗に申す山伏になつた始めであると 云ふことである、
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其後元和三年に、毛利輝元の子就訓が封を分つて、周 防徳山の城主になられたが、其時に彼の良盛法印は、 輝元の命令を受けて就訓に随ひ徳山に移り、就訓は之 が爲めに、修験道の寺を建てて教學院と名け、用人席 の待遇をもつて本山派(即ち聖護院門跡の末寺たる) の山伏となることを得せしめられたのである、一寸茲 で申しておきますが、修験と申す者は、慶長五年徳川 幕府に於て定められたる條目にも「七社引導は修験の 職たる可き事」とあるので、即ち島田家は其後毎年毛 利氏の代参として七社を巡拝するのを大事の役目とし て居つたので、其後代参に出發する時には君公の御 代参と云ふのであるから、毛利家に於ては餘程鄭重に 取扱はれたものであるさうである、其後久しい間格 別の事もなかつたが、彼の始めて修験になつた元祖の 良盛から九代目が即ち蕃根翁の祖父であつた、此人は 餘程の學者であつて色々面白いお話のある人である、 然しながら今は委しいことを申して居る暇がありませ んから、極めて大略を申して置きませう、 先づ其人は名を浄観と申し別號を藍泉と申して、彼の 物部徂徠の高弟たる瀧鶴臺の門人であつて、極めて深 く古學の儒教に通じ且つ文學の才も勝れて居つたか ら、時の名家たる皆川淇園或は頼春水といふやうな學 者と親しく交つて、其の詩文集を出版した時には三條 公から序を賜り、又友人の春水が其の子の頼襄(即ち 山陽外史)に之を浄寫させて、之を出版し又友人たる龜 井道載も篠崎應道(小竹の父)も共に序を作つて居るの を見ても、其學術文藝が如何程深くあつたかと云ふこ とが推し量られるのである、況んや龜井道載の如きは 九州中國の間に於て古學の門戸を張り一方の老儒先生 たるにも拘らず其子の昭陽を特に此の藍泉法印の門下 に學ばせたといふ事であるから、餘程其學門に就いて は敬服して居つた者であると見える、斯様なわけであ るから、徳山藩におかれても、此人を優待せられて一 藩子弟の學事を擔當せしめ、即ち徳山藩の學舘たる鳴 鳳舘と申す者は實に此の人の創立したのであつたと申 すことであります。其浄?法印即ち藍泉の子に義乗と いふ人がありまして、これが即ち今の蕃根翁の父親で ある、翁は文政十年一二月二十八日生で本年が八十才 になるのである、初めの名を圓眞と申して父祖の家業 を嗣ぎ、即ち天台宗本山派修験道の大先達として、教 學院の住持職になつたのでありますあg、學術は専ら祖 父藍泉の系統を承けて、主に古學を學んで居られたけ れども、獨り其に偏せず博く朱學及び考証學等に渉 り、殊に博覧強記であつて諸子百家の學説に通ずるの みならず、有らゆる諸家の雑著随筆等を渉猟して居ら れるので何を問うても分からぬといふことなく後進子弟 の爲には活きた圖書館のやうな人である、現に今年八 十の高齢に達しても其書斎へ往ってみれば古本屋の見 世先をみるやうな亂帙の中に悠然と坐して習字などし て居る様子は實に古の高僧名儒の傳記中に屢々記述せ られたる風采を、目前に見ることが出來ます、殊に 翁は其家道たる脩験の教理及び其條法を傳持されたば かりでなく臨済宗大成寺の住持閲龍和尚に随つて深く 其教を受け、更に伊豫金剛山の晦巌禪師が大成寺に來 寓せられた後は禪師に随學すること多年に及び、之が 爲めに禪學其他諸宗派の教理にも通ずることを得たの である、それで翁と話をして居るとよくこの晦巌禪師 の性行についての逸話が出る、之を以ても翁が深く禪 師に心服して居られたことが分るのである、 かくて翁は御維新にあたつて徳山藩主から脩験をやめ て仕官するやうにとの命を受けたので、先づ興譲舘( 是は翁の祖父、先に申した藍泉先生が創立せられし所 の學舘を改名せし處)の教授に任ぜられ藩士の子弟を 教育せられたが更に待遇を家老席に進められ藩主の諱 元蕃の片字を賜つて蕃根と改めました、それで翁の名は 蕃根と音讀するのでなく、蕃根(みつね)と訓むのである、 其後教育ばかりでなく政事にも関係する事になつて遂 に徳山藩の大参事に任せられ、色々治蹟もあつたが、 明治四年に至つて同列の家老、(今日此席に見えて居ら れまするが翁と同じく蕃の字を藩主から賜つた無二の 交友であらるる)尾越蕃輔氏と相談して、徳山藩を自ら 廢して、本家の山口藩に合併することを願ひ出でら
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第二章 翁の大業と終生の希望 一、縮刷大藏経開版始末 島田蕃根翁談話 一、 「縮刷大藏経」(今の活版の藏経)開版のことですか、モウ 随分古いことになりますから、碌々覚えても居ませぬ、 段々年も寄つて来るし、忘れっぽくなって来るから、 多分間違ったことも云うでしやう、併し今日まで、まだ 藏経開版の顛末を書いた人もないやうですから、少し ばかりに話しましやう、 二、全体「縮刷藏経」の出来上がった、そもそもの始まりは、 私が獅子谷の忍澂上人の伝を読んだのが、原因なので す、 忍澂上人が、「心地観経」を読んで、其中に文句の 通らぬ處があつたのを見て、これではならぬと云うて、 他の藏経と照してみて、始めてその誤を正したと云 ふとか、上人の伝記にあつたから、自分も大藏経に誤 りがあるに違ひないと云ふことを考へて居りました。そ れから、後日になつて、忍澂上人の「對校録」と云ふ 書籍を見て、藏経の校訂に従事した始末は、誰でも知 つて居る處ではあるが、まだ知らぬ人の為に、少しお 話して置くもよからう、 寛永 間、京都獅子谷忍澂上人嘗て疑を明藏に発す、 高麗藏を閲するに及んで大に得る所あり、是に於て、 更に大藏を對校する願を発し、一日奮然として曰く、 大?の頗る一木何ぞ堪へん、今や、明藏の誤脱を発 見す、而して校訂の任、一身何ぞ堪へん、如かず、衆 と之を謀らんにはと、乃ち書を三縁山増上寺に寄せ て同志者十餘人を獅子谷に招致し、始めて對校に従 事す、然るに建仁寺藏規あり、門外に出すを許さず、 ?々近衛基熈公大に忍澂上人の此挙あるに感じ、特 に建仁寺に諭して上人の請う所を許さしむ、實に寶 永三年丙戌也。是歳二月業を起し、七年四月に至り て其功を竣ふ、校すること凡そ三次、毎次人を喚びて、 異同あれば、即ち行間に註せしむ、 まあ、忍澂上人の對校の仕方はこんなものであつて、 宝永三年から七年まで、撓まずに校訂して、終に、立 派に藏経を校訂して了つた、尤も唯だ、獅子谷にある 明版の藏経に、高麗版の善い所を挿入れただけのことで、 まだ出版したわけではない、けれども、私は大に忍澂 上人の志に感じたのです。序でに云つて置きますが、高 麗版の大藏経と云ふのは、云ふまでもない、朝鮮の藏 経で、朝鮮の国王が仏法に帰依した餘り、支那の大藏 経の非常に誤謬のあるのを慨き、偏く宋朝の藏経、国 前本、国後本、中本、丹本、東本、北本、?宋本等の 幾多の大藏経を一つに纏め、多勢の僧侶等に充分校正 せしめ之を開版し、四方へ伝播せしめたのが即ち高麗 の藏経で、是等の種々な藏経を對照して、其の誤を正 したのであるから、實に此の位完全な藏経はない、之 れが日本に伝わはつて、建仁寺、増上寺にあつたのです が、建仁寺のは、同寺の百九十世永?禅師と云ふ人が、 堂字修繕費勧募の為め朝鮮へ渡つた折に持つて来たの で、大切にして居たのであるが、天保八年に火事で焼 けて、僅か四十九巻しかないさうです、尤も、朝鮮に は高麗本の版がまだ保存してあるとは聞きましたが ―一時滅版したことと思つて居たが、今もあるさうだ ―何?も今の有様では仕方がない、即ち日本の増上 寺にある「藏経」は随分貴いものなのです、
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まあ、コンな風で、大蔵経は、高麗本が一番完全なも のです、彼の黄檗版の藏経は、明版を翻刻したのです から、ヤハリ高麗蔵に比べては完全とは云はれませぬ、 そこで、私は忍澂上人の事を聞いて初めて藏経開版の ことを発願したので、之が「縮刷藏経」開版の第一の動機 です、 それから、第二の理由が、支那の歴史で見ると、何か 高僧の名著でもあつて、皇帝の御意に召すと、「勅して 大蔵に入る」とあつて、直に藏経の中へ入れて了ふ、 さうして皇帝の序文とか、宰相の序文とか云ふものが 藏経の首に付いてあつて、中々貴いものであるから、 何卒日本でも、佛教の貴い典籍は斯様工合に尊重して、 セメテは天皇陛下から序文を戴き、将軍家に跋でも書 いて貰つて、一つ日本の大蔵経を作りたいと思つたの か、即ち私の藏経宿初を発願した第二の原因で、これ はまだ、私が二十歳代の時なのです、 其後、日本も、御維新となり、字生が変遷して来まし たから、一時は、そんな考へも中絶して居ましたが、 彼の耶蘇教の輩が、バイブルを、僅かな代価で売捌い て、大に布教の便利を得て居るのを見て、益々佛教挙 掲の為に、藏経を活版にしたいと考へ始めました、大 蔵経は實に立派ではありますが、あんな大きい本では 仕方がない、何様でも活版にして、携帯に便にしたいと 云ふのが、私の希望であつて、之が第三の理由です、 ツマリ、此の三つの原因が寄り集まつて、遂に、「縮刷大 蔵経」開版のことは成立つことになつたのです、  一度考へて置いて、其れを念頭に存する時は、何事 も成功するものです、ツマラない私の愚な考へが、遂 に、明治年間の大出版を仕遂げることになりましたから、 何でも、志は堅うないといけませぬ、 三、最初の計画 私が、最初此の相談をしたのは、大阪の商人、堺屋 仁兵衛と云ふ人が一番の初まりです、私は明治五年に 東京に出て、教部省に出仕し、例のお役人様のことをや つて居りましたが、此の堺屋仁兵衛は、高野山へ孔雀 堂と云ふ堂を建てた人で、其人に話をしたのが、第一 番の発端で、それから、又、真言宗の律僧より帰俗し たる、山内瑞圓と云ふ人に話をして、其の瑞圓から、 當時の管長の獅岳快猛と云ふ人に話をした、―尤も 之は明治十年の後です、處が獅岳快猛さんも大に賛成 して呉れたので、聊か心強いこととなつて、ドーカ、遣 り遂げたいと思つて居ると、ちょうど、不圖したことから、 明版の一切経が手に入りまして、大に都合の善いことに なつて来た、この分では、成功せぬことはあるまいと、 決意して了ひました、此時は明治十二年の頃です、 それで、其事を山城屋佐兵衛と云ふ書林の主人に話し ました、山城屋と云へば、今日は失くなりましたが、 日本橋に須原屋と幷んで盛んに商売をして居たので、 本名は稻田佐吉と云ひます、其男も大に賛成して呉れ て、それから、其の親戚の色川誠一と云ふ者に相談を した、其の色川は、嘗て西洋へ往つて、印刷事業に就 いて研究した人ですから、之にも充分相談をしたので す(此の色川は、今でも富士製紙会社の理事をして居 ります)―そこで、話は一通り纏まつて、創業費は 山城屋が出すこととなり、色川は、其の創業費を携帯し て、京都へ向かつて往きました、勿論、其頃は、佛教各 宗の宗務所などは、東京に出来ない頃でしたから― 各宗本山へ遊説に往つたのです、 四、着手の準備 其時は、私は社寺局に居ましたから、斯う云ふ計画 を助けるには、幾分か便利もありましたが、何にして も随分の大事業ですから、其様迂闊には始められず、 種々工夫もして見ました、其中に色川は帰って来た、 最初の計画ほども往かなかつただが、兎に角、本願寺で 非常に賛成して呉れたので、餘程元気も付き、夫から 色川も一心に働いて居ました、 處が、稻田佐吉は、資本金のことに就いて、山東直砥 と云ふ人に相談しました、山東直砥は、今では多生、 耶蘇教者の間に有名な人ですが、「山東玉篇」などと云 ふ字典を作られたことのある人で、其様な関係から、大 方山城屋が相談したのでしやう、幸に山東も賛成して、 まづ金主は山東が斡旋することとなり、山東氏より紀州
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の人で岩橋萬蔵と云ふ人に相談をし、岩橋より又、大 坂の千種屋と云ふ紳商の平瀬安兵衛に相談して、其の 平瀬が金主となつて、略ぼ事業の基礎だけは成り立ちま した、 さて計画か成り立つたに就いては、社長も要る、事務 所も要るから、此の藏経開版の事務所を「弘教書院」と 名づけ、…之は私が名けたのです…山東直砥を社 長に仰いで、事務萬般の整理に着手しました。 ですから、最初の計画はまあ是だけの人数であつた ので。それから後には随分種々の人も入つて来ました、 勿論私共などは、藏経の開版せらるるのを主として望 んだのであるが、また多少、其間に利潤を望んだ人も ある處から、自然面白くない人物もあり、面倒なことを 云つたものもあつて、種々の変動もありましたが、兎 に角、始から終まで継続して、弘教書院の為に努力し たのは、 稻田 佐吉  色川 誠一  山内 瑞圓 山東 直砥  島田蕃根 の五人でした、其中でも、一番効績のあつたのは、山 東と、色川の両人です、 五、印刷の準備 さて此れまで手筈が運んで来ましたから此次は活版 の方を準備せんければならぬ、何にしても、彼の時代 ですから、完全な活版屋はないので、京橋元数寄屋町 四丁目二番地に、稻田所有の活版所があつた、それを 弘教書院活版所と名けて、此處で印刷することとなりま した、併し、之も暫くの間で、後には、印刷の全部を、 大蔵省の印刷局へ廻すことにしましたが、兎に角、最初 は、そこで印刷する積りであつたのです、  次には紙、紙も土佐国へ注文しまして、全部あちら から取り寄せたのです、明治始まつて以来の大部の出 版ですから、紙も大分買ひました、  序に云つて置きますが、實に此の前後に於るる色川 の盡力は大層なもので殊に豫約募集等に対する奔走は 非常なものでした豫約のことも、私は善く知りませんが、 何でも、最初百二十圓の積りであつたのですが、其の 後山東が来て、其では?も遣り切れぬと云うて遂に百 六十圓に値上げをしたと覚えて居ます、併し私は、御 存知の通り、外に職務があるから、唯だ?起して、其 の事業の端緒を開いたばかりで、別に會計のことなどに 拘わらぬから、或は誤つたことを申したかも知れませぬ、 で、實際の印刷した部数は、二千五百部です、初めは 一千部の見積でしたが、印刷するには、二千五百部刷 つたので、金さへ残らず集まれば、中々損のゆくことは なかつたやうに思はれます、  六、校合の模様 斯くの次第で、兼ねて増上寺の行誡上人と相談致し置 きたるを以て資本金の目途立たる事故行誡上人も大に 随喜せられ準備の方は、大抵出来ましたが、差當り困つ たのは、藏経の校合でした、何にしても、大部のもので はあり、それに、校合すべき藏経か無いので、甚だ困 難しましたが、其時に最も嬉しかつたのは、増上寺の 行誡上人が、思ひ切つて、弘教書院の爲に、増上寺所 蔵の三大藏を貸して呉れたことです、前にも申した通 り、高麗蔵の完全なものは、増上寺にあるばかりですから、 増上寺の大蔵を借りなければ手が着かないので、 云はば此の事業も完全に往かなかつたのでしやう、然 るに大蔵と云へば實に山門の寶として重んじて居たの ですから、若し時勢に通じない人が、住職でもして居 れば、とても、我々の仲間へ貸して呉れることはなか つたのですが、そこは行誡上人だけに、感心なことに は、直ぐに貸して呉れました、全躰、増上寺の三大蔵 と云へば、眞に天下の至寶で、それぞれ由来がある、 昔から増上寺の倉庫の中に三大蔵があつた譯ではな い、孰れも徳川公の力に依つて、日本中から集めたも ので、三大蔵とは、宋蔵、元蔵、高麗蔵、の三種で、 此外に明蔵と云ふのが、今日世に流布している黄檗版 の藏経なのです、今其の宋蔵、元蔵、高麗蔵の三種が増 上寺に集つた次第を調べると、 (一)高麗蔵は(六千四百六十七巻)??大和國忍辱山 圓成寺の所蔵なり、傅へ云ふ、後土御門天皇文明年 間寺主榮弘の請する所、慶長十四年大将軍食邑百五
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十石を與へて之を請す、 (二)宋蔵は(五千七百十四巻)宋の理宗嘉煕三年安 吉州思渓、法寶資福寺の重ねて彫る所、?と、近江 國伊香郡菅山寺の藏する所なり、傅へ云ふ、後宇多 天皇建治元年乙亥寺主專暁の請する所なりと、慶長 十八年大将軍食邑五十石及び山林を以て之を請す (三)元藏は(五千三百九十七巻)元の順宗の至元二十 七年杭州餘杭縣、白雲山大普寧寺、思渓福州の二本 を以て校刻する所、?と、伊豆國走湯山修禪寺の藏 する所慶長十五年大将軍食邑四十石を以て之を請す 即ち三ヶ所から、寄せ集めて、而かも澤山の食邑と取 換へて、僅に増上寺に集めたもので、徳川氏の注意は、 實に稱すべきものです、其後、唯だ増上寺の寶物とし て僅に存して居たものが、此の縮刷藏の開版に依つ て、忽ち校合用の珍本となつたのは、我々にも非常の 幸であり、又、藏經そのものの爲にも大なる幸ひであ つたと思ひます、 そこで斯くの通り校合のの藏經は揃ひましたか、最 初は弘教書院を京橋山城町に置きましたのを、行誡上 人の好意に依つて増上寺大門前の源興院に移し、此處 で校合を始めることになりましたが、さあ困つたのは、 其の校合に従事する人物です、生中な人物では、此の 大藏校合には取掛れませぬから、大分困難を感じまし たが、兎も角も各宗から、それぞれ人物を撰んで校合 に従事することになりました。 七、校合の人物 校合には、實に骨が折れました、實に人物の乏しい のには困難しました、ですから、『明教新誌』あたりへ も廣告までして其の志あるものを募つたのです、其廣 告文を見ると、一寸面白いです、 ○一切經對校者募集廣告 本院縮刷一切經對校者今般増員致し候に付、有志の 僧衆は至急御照會有之度候也 但し護法篤志者にして、容易に無點の教典を讀得 る者に限るべし、 東京芝公園地第三號 弘教書院 之は明治十三年の暮に出した廣告です、けれども其様 自ら進んで来る人は少ないものですから、段々と相談 もあつて、遂に各宗から、それぞれ任命して、出来さ うな人物を出すこととなり、従前、弘教書院と相對で 約束して来て居た人等は、明治十四年の四月に解任し て、更に、公選の校合者を入るることとなりました、 尤も従前から勤めて居て、引続き校合者となつた人も あります、中でも、重なる人は天台宗で、岩本榮中、 眞言宗で飯島道實(居士なり)、浄土宗で森亭闇、千葉 寛鳳、臨済宗で朝木英叟、東海玄虎、桑宜動、神山義 容、天野宜格、眞宗専派で櫻木谷範隆、曹洞宗で假に 佐藤道悟、まづ是等の人は引続き従事して居りました 今、後日の爲に當時の校雕者を調べて見ると、 東京芝區愛宕下銭照院寄寓眞言宗居士 飯島 道實 美濃國武儀郡高野邑臨済宗永昌寺徒弟 東海 玄虎 美濃國眞島郡垂見邑同宗佛土寺徒弟   桑 宜動 東京築地眞宗應善寺住職  松岡 了厳 近江國蒲生郡豊浦邑天台宗東南寺住職 櫻木谷慈薫 武藏國橘樹郡神奈川町眞宗長延寺住職 雲居 玄導 駿河國益津郡郡村臨済宗慶全寺前住徒弟 天野 宜格 豊前國宇佐郡日足村曹 洞宗地蔵院前住徒弟 佐藤道悟 東京下谷區南稲荷町眞宗南松寺住職 櫻木谷 範隆 信濃國南佐久郡跡部村浄土宗西方寺住職 森 亭闇 紀伊國海部郡湊村天台宗明王院住職 蘆津 實全 東京赤坂臨済宗種徳寺住職 朝木 英叟 近江國滋賀郡比叡山坂 本村天台宗正觀院住職 岩本 榮中 伊勢國安濃郡垂見村眞言宗成就寺住職 牧 政純 遠江國榛原郡牧谷原士族 伊佐 岑満 上野國勢多郡大胡町浄土宗養林寺住職 月性 豊民 上總國長柄郡高洲驛日蓮宗實相寺住職 守本 惺亮 駿河國富士郡大鹿村日蓮宗三澤寺住職 齋藤 日一 武蔵國南葛郡?戸村眞言宗普門院住職 千葉 賢永 三河國碧海郡河野村眞宗東派宗園寺衆徒 太田 祐慶 山城國紀伊郡伏見同宗西方寺副住職 兼松 空賢 丹波國與謝郡須津村臨済宗江西寺徒弟 外山 義文 東京芝公園地廣度院住職 千葉 寛鳳
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飛騨國大野郡大名田村眞宗入寺住職 平野素藏 同國益田郡馬瀬村同宗桂林寺住職 日野厳了 美濃國本巣郡文殊邑曹洞宗成泉寺住職 古田 梵仙 越後國岩船郡平林驛同宗千眼寺住職 山本 法泉 東京築地眞宗敬覺寺住職 大江 凝玄 摂津國有馬郡三田村曹洞宗心月院住職 蘆浦 默應 備中國淺口郡柏島村天台宗福壽院住職 實相 圓隨 その後の變遷等は、今は略して申せませぬが、隨分、校合 者を得るに困難したと云ふことだけは、察して貰ひた いものです、 特に、其の校合者と云ふ者の價値は中々大したもの で、大藏経と云ふ貴い聖典を手掛けると聞いては、そ れはそれは地方寺院たちでは、非常の名誉に思はれたの でしやう、今、其一例として、臨済宗から校經委員三 名へ遣した注意書を見せましやう、 一、大藏経對校の儀は最も重任にして、軽易に非ざ る旨を體認し、専ら事業の圓成を期し、?勉従事 すべきこと 一、能く六和の德を修め、對校場規則を堅く守るべ きこと 一、若し不都合の事故これあるときは?に吾宗の慚 愧のみならず、實に一大盛時の瑕瑾なり宜しく戒 愼省慮すべき事 十四年五月 大德妙心兩本山代理 釋 薩水 此の通り、十分鄭重に戒められたもので、餘程重大な 役目であつたのです、 八、校合の順序 校合には、種々方法を考へましたが、大躰は、高麗 藏に依ることとし、即ち高麗藏を原稿として、其れに 宋藏、元藏、明藏の三藏を對照して、校訂することと し、若し増上寺の元藏が缺けて居れば淺草淺草寺の元 藏を對照して之を補ひ、又、増上寺ので缺けた處があ れば、忍澂師の校正本を以て之を補ふこととし、略ぼ 仕組は出来ましたので、まづ、一人が大きい聲で高 麗藏を讀むと、三人の人が其側で、元藏、宋藏、明藏 の三つを見て居て、「それ缺けて居る」「此方には斯様 ある」と云ふ様に、双方で相違した點を謂ひ立てる、 直に筆を執つて、原稿の麗藏の上に、其由を書き付け る、中には、長行と偈頌と違つて居るものもあれば、全 く文字の無い所もある、四本相對しても、全く解らぬ 時には、□を付けて後日の識者を待つこととし、それ でも、何ぞ、外に流布した本に、参照して見るべきも のがあつた時には、其を書き加へて、「今按」の二字を 加へ、又、全く参照すべきものもなく、而かも意義の 通り安いものは、「疑何誤」「恐當作何」と書いて後人の 爲に便利を謀りましたか、此時などには、校訂者に博 識の人がほしかつたのです、 今、當時、校合者の爲た仕事の順序を云へば、 第一業 校本刪補 第二業 句讀 第三業 麗、宋、元、明四本對校 第四業 再校 第五業 印刷對校 此の通りにしていきました、其の中、句讀のことは、 最初は、ご承知の通り、藏経には句讀がないから、其 まま印刷する積りでしたが、中頃竹川辨中と云ふ人が 増上寺に居て、「大藏経に訓點を附すべし」とか云ふ議 論を『明教新誌』に出して、大に騒がしたものですか ら、終に句讀だけ附けることになつて、まづそれだけ、 藏経が便利になつたのです、 九、編輯の順序 全躰、大藏経編輯の順序は、多くは般若經を最初に 置いたもので、般若は佛母の義なりとか云ふことから、 斯く重んじてあつたものであつたが、併し、段々工夫 して見ると、蘊益大師の『閲藏知津』は、餘程辛苦して 順序を正された結果に成つたので、大師は此の爲に二 十餘年間も刻苦勉励せられたさうであるから、今は、 其順序に依りて編輯することとし、此の順序の事は不 忍の辨天堂にて各宗の管長代理及有志者を會合して其 席に於て私か主任となりて校正の事及び部類分の事、 閲藏知津の事などを決定致しましたが、其大要は、 一、經。 二、律。 三、論。 四、秘密。
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五、雑。 とし、其經の方を、更に 一、大乗經華厳部 二百三十三巻 二、 同 方等部 千百三十八巻 三、 同 般若部 七百四十七巻 四、 同 法華部 五十七巻 五、 同 涅槃部 百二十一巻 六、 小乗經 七百七十八巻 に別けたのは、實に天台の主張を基として、蘊益大師 の立てられた順序で、猶此外律以下は、 七、 大乗律 四十九巻 八、 小乗律 四百九十六巻 九、 印度大乗宗經論 四百四巻 十、 印度大乗釋經論 百八十三巻 十一、 印度大乗諸論釋 七十七巻 十二、 印度小乗論 七百二十二巻 十三、 印度撰述部與外論 百六十七巻 十四、 秘密部 九百四十一巻 十五、 支那撰述經疏部 五百八十七巻 十六、 支那撰述論疏部 二十八巻 十七、 支那撰述懺悔部 二十五巻 十八、 支那撰述諸宗部 六百十七巻 十九、 支那撰述傳記部 二百二十二巻 二十、 支那撰述纂集部 二百八十巻 廿一、 支那護教部 百五十六巻 廿二、 支那撰述目録部 百七十四巻 廿三、 支那撰述音義部 百二十巻 廿四、 支那撰述序讃詩歌部 百二十巻 廿五、 日本撰述諸宗部 六十六巻 だけを分ち、各々取捨して、發行した數が合計四十帙 で四百十九冊、千九百四十五部、八千五百六十二巻、 二十五類に分たれております、此順序は主として、私 が主唱したので、中には、明藏に依つて順序を立てた いと云つたものもありましたが、幸に私の主張か通つ て、今日のやうに定まつたのであります、 十、 拾遺 種々込み入つた事情や、弘教書院の末路などは、今 ここでお話し申す必要もない、併し世間では、弘教書院 は餘程儲けたやうに云つて居ますが、勿論、私のやう な人間には商業のことなどは解りませぬが、其外の人等 は、執?も利益を謀つて居る商人ですから、イクラか 儲かつたでしやうが、何にしても此の大出版が、明治 の西南戦争の後、直に起つて、成効したことは、記憶し て置きたい所です、中々今日でも容易に出来ないことを 為上げたのですから、其の功だけは、見て貰はんけれ ばならぬ、  ああ、今、考へて見ると、實に此の事業の成功まで には、何程の苦労をしましたらう、『大藏經』の刻藏縁 起などは、初め私が立派に「島田蕃根識」と書いて居 たのですが、事情の爲に、全く主幹者の名も傳はらす、 四百餘冊の隅から隅まで探して見ても、弘教書院は誰 が作つて、誰が此の大出版を為し遂げたか解つて居ま せぬ、人間の情實は、妙なものです、 併しながら、あの大藏經は、五號活字で刷つたもの ですから、少し細か過ぎて、随分困る人もありさうで、 殊に誤謬も少くないやうですから、是非一つ大い活字 で更に刷り直さうと思つて、支那人と相談して見たこと があり、此通り(實物を示して)縁起等を刷つて見ま したが、それはトウトウ行はれませんでした、仍て、 私は今回は、西洋紙に、四號活字で印刷して、猶ほ日 本撰述の部を澤山入れて、完全な大藏經にしたいと考 へて居ますが、誰も之が、成功することを承認して呉れ ませぬ、尤も、誰が何と云つても、此の藏經の再版が 必要か、不必要かと調べたならば、?に必要のことに 違ないから、出来ても出来んでも、兎も角仕事の基礎 だけは作つて置きたいと思ひます、私もモウ七十を越 して、此様なことを企てるも、愚なやうではあるが、善 いことは、仕始めて置けば、誰か後継ぎが出来るでしや う、  ドウモ、年が老つて暗記の失もあり、十分満足を與 へるやうなお話の出来んのは、甚だ遺憾でしたが、ま づ大抵は、此様なことにして、猶は御質問に應じて御話
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することにしやうと思ひます、 (完)(来馬琢道筆記)  右は明治三十四年雑誌『仏教』の爲に談話せられしものにて、明治  三十九年更に翁の校訂を経たれば瑕瑾少きものたるを信ず