研究活動/ 人文情報学研究部門/ DH2010の紹介/

"Present, Not Voting: Digital Humanities in the Panopticon" の全訳

※以下の文書は、University College LondonMelissa Terras先生によるDigital Humanities 2010 の総会でのスピーチの原稿( http://melissaterras.blogspot.com/2010/07/dh2010-plenary-present-not-voting.html )を、ベンタム研究者である東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野の児玉聡先生が翻訳したものです。欧米のDigital Humanitiesの中でも比較的先鋭的な議論を日本の関連研究者の皆様にご紹介するために訳出していただきました。(人文情報学研究所・永崎研宣)

-目次-
前文、その一
前文、その二
序文
Transcribe Bentham(ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクト)
ベンタム草稿テキストデータ化とDHにおける新しい話題
  1. オリジナルのソースに対する依存、現代的テクノロジーに対する依存
  2. レガシーデータ
  3. 持続可能性
  4. デジタル・アイデンティティ
  5. 偶然性を受け入れ、開かれていることを受け入れる
  6. インパクト
  7. 働き口への道のり
  8. 若手研究者
  9. 経済的不況
  10. 資金、人文学、仕事の安定性
  11. 将来の懸念
パノプティコンの中のデジタル・ヒューマニティーズ
宿題
まとめ

 

DH2010 Plenary: Present, Not Voting: Digital Humanities in the Panopticon

DH2010総会:出席、ただし投票せず――パノプティコンの中のデジタル・ヒューマニティーズ

この文章は、キングズ・カレッジ・ロンドンで20106月に行われるデジタル・ヒューマニティーズ2010(以下、DH2010)の総会の閉めくくりのスピーチで話す予定の――あるいは、こういうことを言えればと考えている――内容に近いものである。だが、わたしは出来上がった原稿を読むタイプではないので、 実際のスピーチでは脱線やアドリブがあるものと考えてよい。このように文章として書いておくのは、参加できない研究者や、ワールドカップのセミファイナルを見るためにパブの座席を確保するのに忙しい人々のためである。

 

(追記。後日、確認できるようにツイートにリンクに入れる予定)


前文、その一

 

はじめに、DH2010の総会のスピーカーを依頼されたことを、大変名誉に思っています。過去の大会ではこういうことはなかったと思います。つまり、これまでは、誰かこの領域に属さない外部の方を招待して、本領域に半分くらい関連する研究領域について語ってもらっていましたが、今回はじめて、本領域を専門にしている人間に発表することを依頼したのです。この部屋の定員は250名ですが、デジタル・ヒューマニティーズについて現在考えていることを一時間かけて語る資格が十分すぎるくらいある人が、わたしを除いて249名いることは承知しています(大講義室でこの部屋の様子をストリーム映像でご覧になっている、DH2010登録参加者200名の方々についても同じことが言えます)。

 

これも言っておきたいと思いますが、わたしは信じられないくらいに緊張しています。会場にいる多くの人は一緒に働いている同僚で、多くの人は良い友人です。つまりこれは、会場から立ち去ってひどい出来のプレゼンを忘れるということができない学会なのです。総会のスピーチのルールが、ここ数年で、情報環境と同じくらい急速に変わっていることはよく承知しています。10年ほど前のALLC/ACH(当時のデジタル・ヒューマニティーズ大会の名前)の総会の様子を覚えているのですが、そのときは演者は自分の本の一章を読み上げるだけで、会場の人を一度も見ず、「39頁に述べたように〜。第五章で論じるように〜」といったように、発表の仕方を工夫するということはまったくありませんでした。わたしの話は録画されネットで生放送で流れていることを考えると、今日では、それではうまくいきません。人々の期待は高いのです。


わたしは緊張(#nervous)しているだけでなく、そのことに気付いてもいます。すでに、会場の多くの人は、わたしが言ったことにツイッターでコメントしていることでしょう。まだわたしの話は始まってもいないわけですが。そうしていただくのは結構で、特別扱いしてもらいたいわけではありません。ただ、みなさんに自覚していただきたいのは、時代が変わったことを、わたしが自覚しているということです。みなさんがわたしが次に何を言うかを知らないのと同様に、わたしも人々にどのように見られ、どのように受けとめられているのかを知りません。実は、監視というのは、本日みなさんにお話したいことの一つなのです。

 


前文、その二


わたしのことを知らない方々に自己紹介します。わたしはユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(以下UCL)に所属しています。UCLはキングズ・カレッジから北に1マイル行ったところにあります。UCLもキングズ・カレッジも、ロンドン大学が1836年に創設されたときの創設メンバーで、この二つの大学は、興味深い、競争の歴史を持っています。UCLは非宗教的な教育機関として設置され、お金を払える人なら誰でも入学させました(ガンディーや女性など)。それに対して、キングズ・カレッジは英国国教会を基盤とする機関として設置されましたが、これは「ガウアー通りの偉大なる神抜きの大学」(UCL)がすぐそばで万人に教育を開くことに対抗しようとしていたからです。二つの大学は、それ以来、友好的な――しかしときには敵対的な――競争関係を維持しています。UCLの最近の学長便りの一番重要な見出しは、UCLがラグビーの大学対抗試合でキングズ・カレッジを220で破ったというものでした。学術的な面では、同じスタッフ、同じ学生、同じ研究資金、さらには同じ施設をめぐって、よく競争になっています。UCLは最近、Centre for Digital Humanitiesを作りましたが、これはキングズ・カレッジが最近作ったCentre for Computing in the Humanities(まもなくDepartment of Digital Humanitiesに改組)という教育研究機関に対抗して作られたものです。こんな感じで他にもいろいろあるわけです。

 

われわれUCLの者は、UCLが他と違う性格を持っていることを誇りに思っています。キングズ・カレッジと違い、われわれは決して神学講座を作ることはないでしょうし、キャンパスに祈祷用の部屋を用意することもしていません。UCLの建学の原則の多くは、法学者であり哲学者であり、法・社会改革者であったジェレミー・ベンタムに影響を受けています。彼は、平等、動物の権利、功利主義、福祉国家政策を支持していました。UCLの特別な所蔵品として、フォリオ(二つ折りの紙)で6万枚に上るベンタムの手紙や草稿が保管されており、その多くはまだ手書き原稿のままでテキストデータ化(transcribe)されていません。ベンタムが死んだ際、彼の遺体は「オート・アイコン」として保存されました(これは宗教とキリスト教流の葬式の必要性を信じていた人に対する挑戦です)。そこでベンタムは、現在、彼のお気に入りの服を着て、UCLの廊下に鎮座しています。よく言われていることですが、ベンタムの身体は理事会の場に運び込まれ、議事録には「ベンタム氏出席、ただし投票せず」と書かれるそうです。

 

古いカラー写真では、保存されたベンタムの本物の頭部が、オート・アイコンの足元に置かれているのが写っています。この頭部は1975年以降、特別所蔵品室に保管されています。その年に、キングズ・カレッジの学生がこの頭部を盗み出し、中庭でサッカーボールのように蹴って遊び、さらに身代金を要求しました(という逸話があります)。このように両大学は友好的な競争関係にあるわけです。

 


序文


まじめな話に戻って、今の話と、デジタル・ヒューマニティーズおよび本総会の関係について話をいたします。ベンタムの主な関心の一つは、刑法改革でした。彼はおそらくパノプティコンを設計したことで一番よく知られているでしょう。パノプティコンとは、看守が、すべての(パン)囚人を監視(オプティコン)し、しかも投獄された囚人は自分たちが監視されているかどうかがわからないように設計されている刑務所のことです。この心理的に、また物理的にも、野蛮な刑務所が建築されることはありませんでした。しかし、この概念は比喩として生き残り、多くの芸術家、作家、思想家たちに影響を与えました。たとえばジョージ・オーウェル(彼はUCLとキングズ・カレッジの間にあるセネト・ハウスという建物の101号室で仕事をしたことがあり、ジェレミー・ベンタムの仕事をよく知っていたと思われます)や、フーコーがそうです。実際のところ、パノプティコンは西洋社会の比喩とも考えられますし、さらに、昨今では、オンライン・コミュニケーション、とりわけソーシャル・メディアの比喩としても考えることができるようになっています。ツイートするとき、みなさんは毎回誰が見ているかを知っているでしょうか。わたしたちはどのような聴衆に向けて話しているのでしょうか。また、みなさんは自分の行動がどのように閲覧され、使用されているか、ちゃんとコントロールできていると自信を持って言えるでしょうか。

 

わたしは、自分がデジタル・ヒューマニティーズ関連で過去数か月間に起きたすべての出来事を見た遍在的存在者(omnipresence)であるとは申しません。しかし、このような総会でのスピーチを頼まれると、いろんなことに注意をせざるを得なくなるものです。まじめに宿題をするようになるわけです。わたしはしばらくの間、ツイッター空間のパノプティコン(twittersphere panopticon)を眺めて、何を言うべきか考えていました。その内容が以下のことです。

 

  • 現在われわれの領域で起こりつつある変化を客観的にお示しするために、デジタル・ヒューマニティーズのプロジェクトの一つとしての、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクト(Transcribe Bentham)について手短にお話します。
  • 次に、このプロジェクトの話から出発して、過去数カ月にわたるDHの最近の話題について――少なくとも、わたしがこのプロジェクトから学んだ事柄について――お話したいと思います。
  • 最後に、われわれの領域で起こりつつある重要な事柄に基づいた宿題を、みなさんに出したいと思います。今日、われわれはそれほど友好的な競争関係にあるとは言えません。最近の金融危機や予定された予算削減のことを考えると、アカデミアは今後、たいへんな時代を迎えます。今回の議論で取り上げる諸領域から、われわれは何を学ぶことができるでしょうか。また、われわれは一つの専門領域としてどのような取り組みをすれば、われわれを監視している人々(信じてほしいのですが、大学運営に関わる人々や財政の専門家はわれわれを見ています)に対して、われわれのやっていることがよく見えるようにできるのでしょうか。

 

Transcribe Bentham(ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクト)

 

ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトは、Arts and Humanities Research Council AHRC)の資金援助による一年間のプロジェクトで、UCLのベンタム・プロジェクトの下で行われています(http://www.ucl.ac.uk/Bentham-Project/)。ベンタム・プロジェクトはジェレミー・ベンタムの新全集を出すことを目的としており、これまでのところ、ベンタムの書簡集12巻と、彼の法哲学と法律関連のさまざまな著作がベンタム・プロジェクトによって出版されています(http://www.ucl.ac.uk/Bentham-Project/Publications/index.htm)。しかし、彼の著作が広く読まれるためには、また、そのために多くの草稿をテキストデータ化するためには、はるかに多くの作業が必要です。AHRCによる2003年から2006年の資金援助によってUCLが保管する草稿のカタログを完成することができ(http://www.benthampapers.ucl.ac.uk/)、また約1万枚の草稿のテキスト化が完了しました(現在、MSワード形式で保存されています…)。しかし、この学際的な歴史的人物の著作を読み、テキストデータ化し、分類し、人々に入手可能にするために、まだまだ多くの時間を費やさなければ、ベンタムの著作に関心を持つさまざまな研究領域の研究者がそれを分析、検討、利用することができないのです。


クラウドソーシング(crowdsourcing)――オンライン活動を利用し、人の目による確認を必要とする大規模なプロジェクトに役立てること――が、図書館、博物館、文化遺産業界の関係者の関心を集めています。その背景には、今日、これらの業界では、オンラインのコミュニティを公的活動に参加させる方法や、有用で使いやすいデジタル・リソースを作るのを手伝ってもらう方法を模索しているということがあります。クラウドソーシングを重要な課題に適用した先進的な文化遺産プロジェクトの一つとして、UCLのベンタム・プロジェクトが最近、「ベンタム草稿テキストデータ化」イニシアチブを立ち上げました。これは、ベンタムの手書きの文書1万枚のテキストデータ化に協力してもらうために開発された、大規模なオープンソースの参加型オンライン環境です。この実験的なプロジェクトは20108月にスタート予定で、学校の生徒や、アマチュア歴史研究者や、他の関心ある人々に参加してもらい、いくらか時間を割いてもらって、ベンタムの草稿を読むという作業を手伝ってもらうというものです。ユーザ・コミュニティをうまく取り込むことがこのプロジェクトの成功の鍵を握るでしょう。また、このプロジェクトのもう一つの役目は、社会のより広いコミュニティに協力してもらってこのような歴史的マテリアルに取り組んでもらうという試みが果たして成功するのかどうかを確かめることです。この取り組みの結果として、高品質で信頼できるテキストが得られるでしょうか。人々は、偉大な哲学者の(読みにくい)手書きの文章を読む時間と労力を無償で提供することに関心を持つでしょうか。どのような技術的・実際的な困難が生じるでしょうか。クラウドソース環境において、成果をどのように確認できるでしょうか。

 

ベンタム・プロジェクトとベンタム草稿テキストデータ化イニシアチブの興味深いもう一つの点は、歴史的な文書に関するプロジェクトにおけるデジタル・ヒューマニティーズの進展をよく示しているということです。ベンタム・プロジェクトは、これまで主として印刷によるアウトプットに専念していましたが、1990年代半ばにウェブに進出し、21世紀の初めにベンタムのアーカイブのオンラインデータベースを作り、現在はベンタム草稿テキスト化のためにベンタムの著作をスキャンするという比較的大規模なデジタル化プロジェクトを行っています。それに加えて、ベンタム・プロジェクトのサイトは、単純なウェブページから始まって、インタラクティブなウェブ2.0環境になり、またMSワードからTEIに準拠したXMLテキストとなり、さらに、比較的内向きなアカデミックなプロジェクトから外向きなコミュニティ作りの実践となりました。われわれは、この一つのプロジェクトを通して、デジタル・ヒューマニティーズについて考え、技術がわれわれの研究活動や、歴史の領域で働く人々の実践を変容するという側面を垣間見ることができます。

 

ベンタム草稿テキストデータ化とDHにおける新しい話題

クラウドソーシングについて1時間ずっと話すこともできますが、デジタル・ヒューマニティーズ・コミュニティに関係する人々には、わたしがベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに参加しているさいに課題として浮かび上がってきた事柄のいくつかについてお話した方が有用だろうと思います。どんなプロジェクトに関わるにせよ、自分の領域に関して新しいことを学ぶというのは本当の話で、昨年一年の間に、DH研究のさまざまな側面や、DHコミュニティに関係するさまざまな問題が浮かび上がってきました。


これからそうした問題のいくつかについてお話しますが、そのさい、現在DHコミュニティで起きているとわたしが観察したことによって裏付けようと思います。わたしの所見はDHコミュニティの人々がツイッターで話している内容に基づいています。わたしのことをストーカーと思われる人もいるかもしれませんが、お赦しください。これからお話する問題の多くは、DHコミュニティでますます顕在的になっているものであるため、わたしはこれらの問題について、みなさんのツイートを引用します。

 

1.     オリジナルのソースに対する依存、現代的テクノロジーに対する依存

 

わたしは、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトで働いているときほど、自分が「何でも屋」であると感じたことはありませんでした。「何でも屋」であるという感覚はすばらしいものです。きちんと説明しておくと、ベンタム・プロジェクトはフィリップ・スコフィールド教授の仕事であり、彼はこのプロジェクトに25年以上携わっています。わたしは、一次資料とこのプロジェクトに関わる熱心な研究者と、新しいテクノロジーの間の橋渡しをするために、つい最近雇われたのです。一方でわたしは、わたしほどITについてよく知らないけれども自分たちの領域についてはわたしよりもよく知っている研究者の方々に完全に依存しており、彼らがいなければ学術的な貢献はできません。他方でわたしは、われわれがベンタム草稿テキストデータ化に関して持っているアイディアを現実化して、文書をテキスト化するための複雑な(しかし一見して単純な!)作業環境を数カ月の間に準備する時間を持つプログラマーの方々に完全に依存しています。歴史的知識や原資料を入手できなければわたしは途方に暮れるでしょうが、新しい--オンラインの最新の--技術を使えなければ、やはりわたしは途方に暮れるでしょう。

 

これはわれわれの学問領域でしばしば見られる事柄だと思います。Ray Siemensが、「今週は素晴らしかったが、そのハイライトの一つは1532年のザイン(Thynne)版のチョーサーを手に入れたことであり、もう一つはiPadを手に入れたことだ」とツイートすると、われわれは歓声を上げます。また、Brian Croxallが、「うげ、このホテルではネットにつながらない」とツイートすると、われわれは水や酸素と同じぐらい不可欠になりつつあるサービスや環境から切り離されたことに対する彼の不満を感じることができます。また、Bethany Nowviskieが、「自分の#DH2010用ポスターが、折り曲げ可能で、お持ち帰り可能な、インタラクティブなタッチスクリーンになっている夢を見た。もうすぐそういう時代が来るかもしれない」とツイートすると、われわれはその通りだとうなずいて、なるほど、そうなるとクールだな、ちょっとググってみてそういうポスターがあるかどうか調べてみよう、となるわけです。このようにわれわれは、人文学研究とコンピュータ・テクノロジーの双方を眺めるという二つの並行した世界に存在しており、そういうあり方は非常に得るものが大きく、大変おもしろいものになる可能性があるのです。わたしはベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトで働くことを本当に楽しんでいます。わたしはDH研究が持つ二元性を本当に楽しんでいます(必要なときにネットにつながる限りは)


2.
レガシーデータ

 

しかし、歴史的な文書(や遺跡など)を用いて作業すると同時に、デジタル・ヒューマニティーズでますますよく見られるようになっているのは、歴史的なデジタル文書、すなわちレガシーデータ(legacy data)とも取り組まねばならないということです。レガシーデータは、それほど古くない過去の遺産であり、フォーマットの形式や構造が現在のものとは異なっているために、デジタルデータに関するベストプラクティスについての現在の考え方に基づいて変換処理する必要があります。これには膨大な作業が必要です。1万枚のテキストデータ化されたベンタムの文書をMSワードからTEI準拠のXMLに、あらゆる単位でマークアップしながら変換することは、相当大変な仕事です。これらのテキストデータ化された文書を、現在オンラインデータベースに存在する記録と関連付け、さらに(使いやすさと持続可能性の観点から)UCLの図書館の記録システムと関連づけることは、相当大変な仕事です。すでに存在するテキストデータ化された文書を、すでに存在する著作のデジタル画像と関連付けるのも、相当大変な仕事です。というわけで、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトは、新しく革新的な研究を行うと同時に、今いるアヒルたちを一列に並べるという仕事もしているわけです。

 

われわれのほとんどはこのことを理解しています。また、われわれのデジタル・リソースが今後も使用されることを保証するためにわれわれの仕事や記録を継続的に維持しアップデートするには、どのぐらい膨大な作業(と費用)が必要かをわれわれは理解しています。そこで、Tom Elliotが「今日、BAtlasのレガシーデータをPleiadesに追加。@sgilliesに感謝。http://bit.ly/dBuYFg」と一見何でもないようなツイートをすると、実際には既存のリソースを変換し維持するために信じられないくらい膨大な作業が存在したことを、われわれは理解するわけです。われわれDHに関わる人間は、未来や新しい技術を見据えるだけではなく、われわれ自身がしてきたことをアーカイブする必要があるのです。

 

3. 持続可能性

 

これと関連して、持続可能性(sustainability)という頭の痛い問題があります。ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに関して言えば、われわれはこのプロジェクトが一年という年限を超えて継続することを望んでいます。しかし、この点に関していくつかの決定をする必要があります。資金がなくなってスタッフを雇うことができなくなっても、ユーザーフォーラムやユーザーからの貢献を引き続きモニターしたりモデレートしたりすることはできるでしょうか。研究資金がなくなったところでwikiを凍結してしまうか、あるいはwikiの仕組みをそのまま残しておいて、誰でもネット上で自由に使えるものにするか。われわれは、一年のプロジェクトにおいて、研究資金を引き続きもらうに値することを示す結果はまだ出ていないにも関わらず、今後の研究資金を確保するために応募書類を出す必要のある段階にあるのです(そして、現在の状況では、なんらかの研究資金が得られる保証はどこにもありません。以下を参照)。しかし、幸いベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに関しては、それがどうなるにせよ、その親プロジェクトであるベンタム・プロジェクトはフィリップ・スコフィールド教授の注意深い庇護の下で継続することになっています。そこで、「愛の労働であることは、しばしば、一番の持続可能性のモデルである」ことをわれわれに思い出させてくれるDan Cohenの言葉をShane Landrumがツイートで引用すると、われわれはその言葉の意味を理解するわけです。持続可能性はDHコミュニティで大きな関心のある領域であり、財政的問題がより複雑になるにつれ、ますます関心は大きくなることでしょう。

 

4. デジタル・アイデンティティ

ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトが生き残るかどうかは、そのデジタル・アイデンティティとデジタル・プレゼンスにかかっています。このプロジェクトはオフラインの世界には存在していないのです。このプロジェクトはまさにそういう性格のものなのです。ネット上に存在する場であり、訪問した人が気に入れば文書のテキストデータ化を手伝うというものなのです。ですから、本プロジェクトが成功するためには、その機能性、デジタル・プレゼンス、デジタル・アイデンティティが完全に的を射たものでなくてはなりません。これほどデジタル・プレゼンスが重要なデジタル・ヒューマニティーズのプロジェクトに関わるのはわたしにとって初めてでしたが、そのおかげでデジタル・アイデンティティとデジタル・プレゼンスについてわれわれはもっと真剣に考えないといけないと思うようになりました。やっつけ仕事でウェブサイトを作って、「これで大丈夫。さあ、本を書く仕事に戻らないと」というような態度では駄目なのです。デジタル・リソースを作るという仕事に関わるのであれば、デジタル・リソースを作るのに秀でているだけでなく、デジタル・アイデンティティとデジタル・プレゼンスについて意識的でなければならないのです。

 

幸いなことに、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトでは、わたしが指導する博士課程の学生の一人であり、才能あるグラフィック・デザイナーでもあるRudolf Ammann (@rkammann)の協力を得ています。彼はUCLCentre for Digital Humanitiesとベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトの両方のオンライン化の作業を担当すると同時に、われわれのプロジェクトにぴったりの、有用で記憶に残るロゴをデザインしてくれました。われわれはツイッターやフェイスブック上でベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトのプレゼンスを高め、それによって協調作業が進むよう、注意を払っています。われわれは誰かが見てくれていることを期待しています。

 

人々がわれわれのウェブサイトやわれわれのリソースを見てくれているかどうかが、これまでにない仕方でにわかに重要になってきました。デジタル・プレゼンスとデジタル・アイデンティティは、学問領域としてのデジタル・ヒューマニティーズにとって、より重要になっていると思います。そこで、Amanda Frenchが冗談めかして「昨日、わたしの『binary hero』についての投稿http://bit.ly/aKpBiXをリツイートしてくれる人がほとんどいなかったので、@DHNowから不採用通知を受けたような気になった」とツイートすると、われわれは、新たなデジタル環境で協調することの複雑さを理解するわけです。 われわれは意見のやりとりが生じることを望み、注目を浴びることを望むのです(もしDHNowのことをご存じなければ、DHNowを毎日読んでください)。同様に、Matt Kirschenbaumが「ツイッターはDHのインフラとして、これまでのいかなる献身的な努力よりも貢献しているだろうか」とツイートして、Tim Sherrattが直ちに「(自分にとってはそうだ!)」というコメントを追加してリツイートすると、われわれは新しい様態のオンライン・コミュニケーションによって提供される潜在的可能性を理解するわけです。どうすればこの可能性をベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに適切に活かすことができるかについては、まだ今後の課題です――しかし、少なくともわれわれは努力の必要があることに気づいています。

 

5. 偶然性を受け入れ、開かれていることを受け入れる

 

ベンタムの完璧な(あるいは可能な限り完璧に近い)紙媒体の書簡集を作ることと、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトにおいて一般市民から得ることになるさまざまなレベルのインプットに対処することを学ぶことの間には、大きな違いがあります。緊密な連携が存在する研究者集団の中で仕事をすることと、一般市民と一緒に仕事することの間には大きな違いがあります。また、オンライン版を作ることと、他の利用法にも開かれているソースを作ることにも違いがあります――ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトでわれわれがやりたいことの一つに、最終的に作成されるXMLファイルへのアクセスを開放し、他の人々がその情報を(ウェブサービスなどを通じて)再利用できるようにするということがあります。われわれが準備中のホスティングとテキストデータ化の環境は、オープンソースですので、他の人々がそれを使うことができます。この大きな変化、つまり小グループで仕事することから、広くユーザーの協力を求めるという変化は、われわれが受け入れなければならないことであり、そういう環境で仕事することを学ばなければなりません。われわれはまた、100%の完成度という考え方をあきらめて、より大きなプロジェクトを求め、より大きなオーディエンスからのインプットを受け入れ、そしてそれによって生じる混沌を受け入れなければなりません。そこで、Dan Cohenが「わたしが感じているもう一つの新たな理念――研究者として、われわれは完全で、決定版で、完結した全集を作らなければならないという強迫観念を克服する必要がある」とツイートすると、われわれはその意味を理解します。上等です。何が起きるか、楽しみに待つことにしましょう…。

 

6. インパクト

 

最近になって気付いたのですが、わたしがベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに参加したさいの反射的な反応は、「このプロジェクトから、わたしの業績になるようなアウトプットはどうやったら得られるだろうか」というものでした。研究資金の申請書を書くとき、ユーザーテストとフィードバックのための期間を設けましたが、これを設けた理由の一つは、このプロジェクトでほぼ確実に出すことのできる数少ない出版物、すなわち文化遺産プロジェクトにおけるクラウドソーシングの成功――あるいは不成功!――についての出版物を出すためでした。そのようにしてアカデミックなアウトプットを出しておけば、オンラインでの作業に勤しんでいるときに、オープンソースのツールを作ったり、数千人の潜在的なオーディエンスへのアウトリーチを行ったりすることがアカデミアの世界で「業績に数え入れられるか」どうかをあまり心配しなくて済むでしょう。結局のところ、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトがいかに成功したとしても、「インパクト」はいつもと同じ仕方で――出版物によって――評価されるわけです。これは馬鹿げた話ですが、アカデミアにおけるゲームのルールであり、デジタル・ヒューマニティーズ分野で仕事をしている人々にとってはますます不満の種になっているものです。何かおもしろく、人々によく使われるものを作ることに成功したというだけでは不十分で、そのことを『一流の大学研究者ジャーナル』に掲載されるような論文にして、自分の業績一覧に一行加えないと、そのプロジェクトに時間を費やしたことを正当化できないのです。そこでわれわれは、Stephen Ramsayが感じる不満を理解するわけです。彼は、自分が作ったミニ・ドキュメンタリー映画をネット上にアップしたところ、デジタル・ヒューマニティーズ分野で最大といってよいほどの広がりを見せ、数千人の人々が閲覧しましたが、自分の業績にはまったくといっていいほどインパクトがなかったのです。彼は次のように書いています。「これまでに何本か論文を学術誌に発表した。奇妙なことだが、そのいずれも、2週間で2000人に読まれるというようなことはなかった。論文のタイトルがTシャツに書かれたり、熱心なファンから何十通ものEメールが送られて来たりすることもなかった。なのになぜ、また学術誌に投稿するために論文を書いているんだろうか。…ああ、そうだ、自分の講座では映画を業績に数えてくれないんだった」。

 

7. 働き口への道のり

これは難しいテーマです。デジタル・ヒューマニティーズのプロジェクトで技術的な仕事をするために雇われる人は、たとえその仕事が(TEIのマークアップをするというような)研究支援のレベルで、研究者としての訓練を積んでいる必要がなかったとしても、デジタル・ヒューマニティーズで博士号を持っている必要があるでしょうか――。正直に申しますが、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトでRA(リサーチ・アシスタント)を二名公募したとき、まさにこの問題に直面しました。われわれは二名のポスドクを雇いたいと思って公募を出しました。一人はベンタム研究の領域で仕事をした経験のある思想史のバックグラウンドを持ったポスドクで、もう一人はTEIの運用能力を持ちシステムのバックエンドを担当できるポスドクです。われわれは博士号を持っている人が必要だと特記しましたが、それは英国の大学における雇用規則が変更されたためです(正確には、通常の給与枠組みで雇用される人に適用される規則ですが)。その規則によれば、博士号を必要としないポストとして公募した場合、(spine point systemとして知られる)給与体系の関係で、仮に博士号を持った人が安い給料で働くことを了承したとしても、その人を雇うことはできないのです。そこでわれわれは二人のポスドクを公募し、もし博士号を持っていないけれども優秀な人が応募してきた場合には、給与を下げて雇うことにしたのです。しかし、われわれは博士号を持っていない人が応募してきた場合でも採用を検討するという一文を書くのを忘れていました。ネット上の掲示板での格好の議論のネタになる話です。

 

このことに関する不満はよく理解できます。Dot Porterはツイッターではなくフェイスブックで、「応募資格に博士号が必要と書いてあるのに、仕事の内容を読んでもなぜ博士号が必要なのかわからない公募を見ると、腹が立ってくる。ひょっとすると自分が博士号を持ってないから神経質になるのかな。いまどき、デジタル・ヒューマニティーズで働くのに本当に博士号が必要なんだろうか。研究支援職(非研究職)であってもそうなんだろうか」と書いています。

 

これはデジタル・ヒューマニティーズにおいて深刻な問題になりつつあります。研究職に至る明確な道のりがなく、博士号を得るための明確な道のりがなく、また博士号を持っていないけれども高い地位にいる人がこの領域にはたくさんいます。しかし、今日われわれは、若手研究者がそのような道のりを通ってくることを期待し、しかも研究支援レベルの役割で働くことを期待するのです(その理由の一つには、ほとんど研究職がないこともあります)。この問題にどのような取り組みができるかは今後の課題です。ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトでは、公募の条件を変更して、博士号を持っていない人からの応募も受け付けることを明記しました。最終的に、われわれは二名のポスドクを雇用したのですが、博士号はなくても仕事を適切に行えるスキルさえあればこの職に応募できるということを、少なくとも公募の条件としては明確にしたわけです。

 

8. 若手研究者

 

この雇用とキャリアと将来の展望についての問題は、われわれの領域における若手研究者の不満につながっています。足場を得るのは難しく、仕事を得るのは困難です(これはデジタル・ヒューマニティーズに限った問題ではありません――英国では25歳以下の大学卒業生の15%が現在失業中です。博士号を持っていようと持っていまいと、大学出身者にとっては大変な時代です)。もしかしたら、大学の学生から大学の研究者になるのは、いつの時代でも難しかったのかもしれません。しかし、ツイッターをしていると、この領域で研究職を目指す若手研究者が直面している問題の深刻さを実感できます。ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトで公募をするさい、ポストを得ることができない非常に優秀な候補者が何名かいることをわたしはよく知っていました(われわれの面接で次点だった人は、仮にわれわれが思想史のポスドクのポストを二名分募集していれば即座に雇ったぐらい優秀な人でしたが、あとで話を聞くと、すでに面接を20回以上受けたことがあるけれども、フィードバックをもらったのは今回が初めてだったと教えてくれました)。われわれは、(われわれ給与をもらっている研究者が直面している財政的な圧力について文句を言っている時代に)若手研究者が直面しているプレッシャーを忘れるべきではなく、また彼らが研究者としても個人としても大変つらい思いをしているかもしれないことを忘れるべきではありません。「#DH2010への出席を取りやめるというメールをさっき出した。大学の奨励金をもらったとしても、この夏に引っ越しをするので、お金が足りない。ためいき(#sigh)」というRyan Cordellが書いたようなツイートを読むと、わたしは悲しくなるのです。

 

9. 経済的不況


今の話と関連して、次の暗い話題に移りたいと思います。Brett Bobbleyが「二週間前には、子どもが通っている学校でSilly Bandzを身に着けている生徒は一人もいなかったのに、今ではみんなが着けている。高等教育ではなぜこういうスピードで移り変わって行かないのだろうか」とツイートすると、われわれはみな、大学が時代の変化に即座に反応する場所であるわけがないと、苦笑するわけです。大学の外部の出来事が大学に影響を与えるまでには、数年かかります。経済的不況の影響が高等教育に現れるようになったのは、つい最近のことです。英国では、今後数年間の予算削減は、どの情報のリークやうわさや大臣を信じるかにもよりますが、25%から40%になると予想されています。今は、研究にとっても、研究機関にとっても、個人にとっても、研究プロジェクトにとっても、不確かな時代です。ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトの研究継続のために応募書類を出すお金があるかどうかさえわかりません。たとえ研究資金の申請をしても、財団が予算削減で急にすべての申請を不採用にするかもしれないのです。われわれは、芸術、人文学、文化遺産のプロジェクトの経済的な重要性をどう主張すればよいのかがよくわからないため、お偉方が次にどの予算を削減するかを決める際に、われわれの仕事の重要性やインパクトや存在意義を示し、人々が小切手にサインすべき理由を示すことができないのです。今は不確かな時代です。そのことがデジタル・ヒューマニティーズに与える影響は、徐々に現れ始めていると言えるでしょう。

 

10. 資金、人文学、仕事の安定性

 

キングズ・カレッジで行われる人文学(Humanities)という名前が付いた学会に出て、キングズ・カレッジの人文学で昨年起きた事柄について触れなければ、わたしは自分が道徳的に間違ったことをしていると思うでしょう。古文書学はわたしにとって重要な学問で、@DrGnosis#DH2010の開会スピーチの最中にツイートしたように、「古文書学のことを考えると涙が出て」きます。また、この大会に正式に参加しているデジタル・ヒューマニティーズ・コミュニティの420名のどなたがこの総会スピーチを依頼されたとしても、この問題を取り上げる勇気を持っていただろうと思います。けれども、わたしはここではゲストであり、無礼なことはしたくありません。ですから、わたしはJohn Theibaultがツイートしたことを繰り返すだけにします。「キングズ・カレッジで起きていることのために、DH2010はいくらか葬式のような雰囲気になるだろう」。もしわたしが何を話しているのかわからない人がいたら、調べていただき、キングズ・カレッジでは去年いかに人文学研究者が大学本部から尊敬を受けていなかったを理解してもらいたいと思います。そして、自分の大学の本部がキングズ・カレッジで起きていることを見て同じことをやろうとしていないことを祈ることをお勧めします。それ以外に、人文学のためにできることがあるでしょうか。

 

人文学の関係者にとっては、自分たちの存在の経済的有用性について主張することは非常に困難です。しかし、現在の状況では、われわれはまさにそのような主張を行うことが期待されているのです。われわれは、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトのようなプロジェクトがなぜ社会的意義をもち、重要で、役に立つのかを説明できなければならないのです。人文学の関係者は歴史的にこれが不得意であり、DHの関係者も同じです。しかし、DHは伝統的な人文学研究とは異なっています。プラスの面としては、DH研究には転用可能なスキル一式が伴っており、これを明確にすることができれば、広範囲の文化や遺産や創造的プロセスやさらにはビジネスプロセスに役立ち、影響を与えることができるはずです。マイナスの面としては、ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトのようなプロジェクトは、たとえば一人の個人研究者がビザンチン帝国の印章学に関する文献を一年間かけて書くための研究費を出す場合と比べて、もっとお金がかかるということがあります。同じことをデジタルでやる場合、研究者、コンピュータ・プログラマー、コンピュータ、デジタル化費用などがかかるわけです。人文学から資金援助が取り下げられている今日において、デジタル・ヒューマニティーズが確実に資金援助を受けられるようにするには、われわれは事前に準備して、なぜわれわれの仕事が重要で、社会的に意義があるのかを明確化し、説明することができなければなりません。

 

11. 将来の懸念

 

もちろん、英国で危険な財政状況にあるのは人文学だけではなく、すべてのセクターがそのような状況にあります。キングズ・カレッジでは、人文学だけが標的にされたのではなく、工学部もそうです。コンピュータ・サイエンスのような利益が上がる領域の研究グループは、他の大学によってごっそり引き抜かれました(現在の大学はあまり友好的な競争関係にないようですね)。そしてこれが英国の大学のいたるところで見られるパターンなのです。われわれはみな、(ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトのような)自分たちのプロジェクトが継続するかどうかについて、学生について、任期付き雇用の若手研究者について、「研究プロファイル」(それが何を意味するのかは置いておくとして)について、そしてわれわれ自身の職について、不安を抱えています。Simon Tannerの「次は英国か? 小規模なウェールズの大学(#Welsh #Universities)を潰す計画が教育(#education)の専門家によって広く歓迎されているそうだ。http://bit.ly/dxWBsj #HE #wales」というようなツイートが暗に示している恐怖をわれわれは理解できるのです。

 

もしわれわれが、誰もわれわれのことを監視しておらず、われわれのコミュニティやわれわれの研究や我々の社会的意義やわれわれのアウトプットについて価値判断をしていないと考えるなら、それは間違っています。われわれに注意を払っているのは、他の研究者だけではなく、財布のひもを握っている人々――しばしば、暴力的な予算削減をする以外選択肢がない人々――でもあるのです。人文学は、研究者が自分たちの社会的意義について主張するのを嫌がるか、あるいはその能力がないという事情からして、最も標的にされやすい領域の一つです。ここで、オーウェルの『1984年』の一節と、恐るべきプレッシャーと監視の下で社会に何が起きるかが思い起こされます。次のようにパラフレーズすることをお許しください。もしわれわれが予算削減に対して対策を立てず、しっかり注意してなければ、こうした予算削減は、「永遠に人文学の顔を踏みつけるブーツ」となるでしょう。よく覚えているのですが、快活だったDH2009の最後にNeil Fraistatが立ちあがって「デジタル・ヒューマニティーズの時代がついに始まった!」と言いました。しかし、2010年の現在、われわれがたどり着いた場所は風景が変わってしまい、それほど楽天的ではいられないのです。トト、ここはもうカンザスじゃないみたいよ。


パノプティコンの中のデジタル・ヒューマニティーズ

 

そこで、われわれのコミュニティの外部にいる人になったつもりで、アカデミアで起きていることを監視し、われわれの学問領域について価値判断と財政的判断を行ってみることにしましょう。デジタル・ヒューマニティーズは、このような監査を行った場合に、どのくらい持ちこたえることができるでしょうか。デジタル・アイデンティティ、インパクト、持続可能性という非常に重要な側面に関して、及第点を取ることができるでしょうか。

 

その答えは、あまり良い点は取れないということです。外側から見ると、われわれはアマチュアに見えます。多くの研究領域の中でも、われわれは自分たちのデジタル・プレゼンスと自分たちのコミュニティを維持することの重要性を最もよく理解していると言えます。しかし、われわれのウェブ上のプレゼンスは、多くの学会の中でも、まったく話になりません。ACHのウェブサイトは2003年に最終更新したと書いてありますし、ALLCのウェブサイトは不必要に大きい真っ白な余白を見せるために作られたとしか思えません。SDH/SEMIのウェブサイトはそんなに悪くありませんが、ナビゲーションとプレゼンテーションの仕方に問題があります(あえて言及するのは、一学会だけ省略することがないようにです)。しかし、ADHOのウェブサイトは、Wikiがちゃんと管理されていないときに何が起きるかを最もよく示しています。こうしたウェブサイトは外部の人が見るわれわれの顔なのです。これらのサイトは、われわれの領域を代表しているのです。われわれの領域は、他のソーシャル・メディアや新しい技術がどう使用できるのかを示すべき領域であるにもかかわらず、それらを受け入れるのが遅いのです。

 

しかし、みなさんご存じないかもしれませんが、これらの学会は最近、最新の技術を取り入れるようになっています。舞台裏では大仕事が行われていることを多くの人から聞いているので、この点に関してあまり非難するつもりはありません。もうすぐ新しいADHOのサイトでワイヤフレームが使われることになりますが、これはわれわれがようやく21世紀に移行しつつあることを示しています。興味深いのは、本領域のミッション(使命)と本領域の定義について大きなスペースが割かれていることです(DHにはまだ定義がないのです!)。われわれはデジタル・プレゼンスについてもっと真剣に考えるべきです。そして、われわれみなが知ってはいるもののまだ使っていない、この領域のプレゼンスを高めるために役立つ技術の可能性を受け入れるべきです。

 

インパクトについてはどうでしょうか。歴史的に見て、われわれは自分たちの社会的意義やこれまでの成功や自分たちが持つインパクトについて、われわれのコミュニティの外側に向けて主張することを不得意としてきました(また、ときにはわれわれのコミュニティの内部においてもそうでした――最近わたしが驚いたことは、この領域で第一線の研究者が、DHコミュニティがXMLの形成において果たした役割についてツイッターで聞いたとき、そんな話は初めて聞いたと答えたことです)。われわれは専門領域としての自分たちの歴史を知ることが苦手で、また今日のアカデミアでわれわれの研究コミュニティがなぜ必要であるか、その理由の具体例を頭の中に常に準備しておくことが苦手です。

 

持続可能性について言えば、われわれは他の多くの専門領域と比べて、自分たちの学問の遺産を保存することについて最もよく知っているはずです。しかし、この領域の研究者たちが、以前の学会の抄録が消えてしまったり、ウェブサイトが一晩にしてなくなってしまったり、学会誌のバックナンバーが完全にそろっておらず、見つけることもできないということに気付き始めたのは、つい最近のことです。たとえば、ALLC/ACH 2000の抄録集に含まれている画像ファイルを誰も持っていません。われわれは自分たちの遺産を大事にすべきです――われわれ以外にそうする人はいないのですから。先ほどと同様、このことに関しても、何人かの人々がわれわれの学問領域の歴史のデジタル・コピーを作ろうと裏方で作業をしており、うまくいけば来年中ぐらいにオンラインで利用可能になるでしょう。われわれは自分たちの学問を公表し、維持し、持続させることに関して、人文学の中でも先陣を切る必要があります。そして、自分たちが言っていることをちゃんと実践して見せるべきです。現時点では、われわれはそれができていないように思われます。

 

そもそも、どうしてこれらのことが重要なのでしょうか。わたしの講演のタイトルをご覧ください。「出席、ただし投票せず:パノプティコンの中のデジタル・ヒューマニティーズ」。われわれのコミュニティは重要です(ただし、悪いことに、みなさんの多くは投票していないのですが――ACHALLCの選挙では、投票率は30%ほどでした。われわれは学会に新たなメンバーを必要としています。われわれは文句を言うだけではなく、われわれの学会やコミュニティやアカデミアでのプレゼンスを改善するために袖をまくって働く気概のある人々が必要なのです)。しかし、次の事実が厳然として存在しています。もしわれわれが自分たちの研究のプレゼンスを真剣に考えず、デジタル・ヒューマニティーズを支援するつもりもなく、自分たちの社会的意義や優秀さやこれまでの業績を人々に示すつもりもないのであれば、DH業界で仕事している人々の地位(これには、デジタル化研究の妥当性や、人文学におけるデジタル化研究の評価が含まれます)は改善せず、これまでと同様、無力なままでしょう。われわれは、優秀さや結束力や数による力を示すべきです。われわれは、財政的困難やアカデミアで次に起きることに対して、可能な限り準備をしておくべきです。もしわれわれがデジタル・ヒューマニティーズに自らのアイデンティティを持っているなら――この学会に参加している多くの人々はそうであると思いますが――、それが何を意味するのかを詳らかにし、われわれのコミュニティの存在意義を明確にすべきです。将来に向けた準備としては、それが唯一できることです。

 

宿題

 

ここまでは、大変暗い話でした。しかし、われわれのコミュニティには、新しいことをやったり、新しいものを作ったり、何かを達成したりすることが好きな人がたくさんいます。そして、われわれの個人的なキャリアや、(ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトのような)個人的なプロジェクトや、自分たちの研究所や、自分たちの教育を継続させるためにできる実践的な事柄が、たくさんあるのです。

 

個人レベルでは、われわれが何をしているのか、われわれがなぜ重要なのか、われわれがなぜ資金援助を受けるべきなのか、そしてなぜDHに意味があるのかを、訊かれたらすぐに答えられるように準備しておくべきです(DHに関するみなさんの定義は個人的なものであり、さまざまであるはずです――しかし、DHの説明を求められると、「ええと、それはなんというか・・・」と答える人が多いのではないでしょうか――なんというか、で終わってしまうのです)。われわれは自分たちの仕事のインパクトと、その社会的意義について事前に考えておくべきなのです。このことに関して(個人的に、あるいは研究者としての立場で)尋ねられたり、問い合わせがあったりしたら、われわれは答え方を知っているべきです。また、われわれの専門領域の背景や、インパクトや、これまで成功してきたことについて少し学ぶのに大した労力は必要ありません。それによって、「たとえば…」と言って理論的な性格の研究が役に立つ具体例を挙げたり、われわれの研究をより広いコミュニティで応用することに成功した具体例を挙げたり、デジタル文化や使用法やツールに関して解決されるべきいくつかの主要な諸問題と、われわれがそれらを解決するのに適任な理由について、具体例を挙げたりすることができるようになるでしょう。

 

個人レベルでは、研究者のネットワークに支援を求めたり、またコミュニティ(DHコミュニティおよび個人の研究テーマに関連する団体)に積極的に参加したりすることができます。数は力です。個人レベルでは、デジタル・アイデンティティを真剣に考えることができます――他の研究者や他の学問領域に対して、どうすればよいのかを率先して示しましょう。ただし、出版物に関してはアカデミアのゲームのルールに従って、われわれのすばらしいツールが、研究論文の形で主要な雑誌上で発表されることを学ぶ必要があります。これは面倒なことですが、現時点ではわれわれのアカデミアでの信用を維持し向上させる唯一の方法なのです。個人レベルでは、DHを宣伝し、DHと、DHをベースとした研究の唱道者となることができます。また、若手の同僚やこの領域に入ったばかりの学生や若手研究者をしっかりサポートすることもできます。あらゆる仕方でDH大使となることがわれわれの役目なのです。

 

行政的な影響力や政治力を持っている方々は、デジタル・ヒューマニティーズのアジェンダを推進するために講座や研究機関においてできることがたくさんあります。人文学におけるデジタル研究やデジタルアウトプットに対するサポートや奨励をこれまで以上に行うことができます。これは、就職や昇進やテニュアに関する業績として数え入れられるよう、研究機関内の委員会組織において提案し推進することができるものです。(さらに言えば、そういう方々は、デジタル・ヒューマニティーズの研究者のためのテニュアトラックのポストを作るために努力できるかもしれません)。この領域の若手研究者のための研究資金や雇用の問題は、博士号と雇用/資格問題も含め、注意しておくべきことですが、これは、慎重で注意深いリーダーシップを発揮することで取り組むことができる性質のものです。もっとも、DHの運営に携わる人々に対するわたしの主要な助言はこうです。あなたの活動を、組織のインフラに完全に組み込んでください。組織に不可欠なものとなってください。さまざまな講座や、研究支援領域と関わりを持ってください。助言的なサービスを提供し、機関内で可能な限り多くの種類の人々と関係してください。昨今の財政的状況において、自分のスタッフや自分のプロジェクトの必要性を弁護し、事前に対策を考えてください。

 

地域コミュニティであれ、地方コミュニティであれ、全国コミュニティであれ、国際コミュニティであれ、行政においても数がものを言います。本領域のプロジェクトや人々をより広いアカデミアの研究領域にこれまで以上に組み込んでいくために、競争ではなく協力を行うべきです。われわれが今後直面する困難に対処するために、戦略や指針が立てられるべきです。

 

組織レベルの話をすると、一組織内に存在するDHに関わる個人やプロジェクトすべてに関するデータベースを作れば、新しい研究を行うことが容易になるとともに、これまでの研究の蓄積に基づいて新しい研究機会がどこにあるかを明確にすることができます。DHの研究所は図書館システム(およびiSchools)と密接に連携することをお勧めします。また、デジタルアウトプットを研究業績に数え入れ、個々の研究者の内部昇進に役立てることもできます。(UCLCentre for Digital Humanitiesの新しいデジタル・ヒューマニティーズ修士課程のように)教育プログラムを作ることで、この領域に入ってくる若手研究者に基本的な教育を提供することができます。このような大学院レベルの教育――本領域では痛切に必要とされています――を提供する機会を見逃さないようにすべきです。さらに、他の研究機関との連携を奨励することもできますし、教育や研究のアイディアの交流を促すために、たとえば客員研究員のための施設を用意することもできます。

 

デジタル・ヒューマニティーズ協議会(ADHO)も、研究・教育とDHコミュニティを維持しサポートするために多くのことができます。われわれのデジタル・プレゼンスについては、喫緊の課題として対処されるべきです(また、実際に対処中です)。デジタル・リソースに関しては、ADHOとその下位組織は、社会的意義があり有用で成功している研究領域においてDHを守るのに必要な手段をコミュニティに対して提供すべきです。DHや他のコミュニティにとって重要であったプロジェクトやイニシアチブも含め、DHのこれまでの成功事例についての情報を積極的に提供することができます。DHの価値とインパクトを文書化し、提示することができます。すぐれたプロジェクトの一覧を作って管理することもできます。プロジェクトや研究所の運営に関するベスト・プラクティスを積極的に公開したり、DHに関するさまざまな事柄について、困っている人に助言を与えたりすることもできます。研究協力を奨励すべきであり、また、各学会は若手研究者をサポートするために今やっていることを続けるべきです。他にアイディアがある人は、ぜひ学会に連絡を取ってください。学会はみなさんを助けるためにあるのです。

 

研究資金を提供してくれる団体に対するわたしの提案は比較的簡単です。現在、そうした団体が資金提供に関してどのくらい余裕があるのかよくわかりません。ただし、一部の財団は(他の財団に比べて)、DHを非常に支援してくれており、われわれのコミュニティと深くかかわり、話を聞いてくれていることを、ここで述べておくべきでしょう。理論的研究をするにも、DHのインフラを作るためにも、われわれは財政的支援を必要としています。また、プロジェクトの持続可能性や、プロジェクトの総括やアーカイブのためにも、資金的援助が役立ちます。研究協力や大学院レベルの研究を援助し、奨励し、促進することもできます。われわれアカデミアの世界を取り巻く財政的環境が変化していることはみなが承知しているところですが、とりわけ過去10年から15年の間にDHに対して大規模な投資が行われたことを考慮すれば、われわれに対する支援を継続することで研究成果が出ることを保証することには、十分な意味があるでしょう。

 

まとめ

 

以上、わたしにとってDHが何であるのかを一通り正直に話してきました。また、現在DHが直面する問題のいくつかについてもお話しました。ところどころ、必然的に否定的なところもありました。けれども、わたしはみなさんが次のような気持ちを持たれたことを期待します。すなわち、われわれは、個人、講座、研究機関、学会組織、支援団体として、DHを人文学の殿堂の中にもっと組み込んでいくために、そしてまた、われわれが本当に人文学に不可欠であることを証明するために、積極的な活動ができるのだという気持ちです。

 

ベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトに関しては、プロジェクトそのものが成功するかどうかや、一年後にまだみなさんにお話できるような資金援助を受けたプロジェクトが存在するかどうかなど、どうなるかまだわかりません。しかし、わたしにとっては、われわれの現在の研究目標が現在のアカデミアの枠組みにどのように当てはまるのかを理解し煮詰めるための学習曲線の一部と言えます。

 

わたしが確実にわかっているのは、ジェレミー・ベンタムは防腐処理がなされたきたない自分の頭部の写真がキングズ・カレッジ・ロンドンの巨大なスクリーンに映し出されたという事実を喜んだだろうということです(とくに、キングズ・カレッジの問題点に言及したスピーチと関係しているので!)。みなさんにベンタム草稿テキストデータ化プロジェクトとデジタル・ヒューマニティーズ一般についてのわたしの考えをお話する機会を得て、大変楽しかったです。この講演のラフなテキストは、わたしのブログにアップされます。話を聞きに来てくれてありがとうございました。またツイッターでお会いしましょう――パノプティコンの中でみなさんを見ています。

 

 

(翻訳:東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野 児玉聡)