ISSN 2189-1621

 

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DHM 033 【特別編】

2011-08-27創刊

人文情報学月報
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄Digital Humanities Monthly

            2014-04-29発行 No.033 第33号【特別編】 468部発行

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 【特別編】
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
◇基調講演和訳
「デジタル人文学の将来」
 (Neil Fraistat:メリーランド大学教授・Alliance of Digital Humanities
  Organizations会長)
 (日本語訳:長野壮一・東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)

※本稿は、2014年3月に開催されたオーストラリア圏デジタル・ヒューマニティーズ
学会におけるニール・フライシュタットの基調講演の原稿の和訳である。

 パーシー・ビッシュ・シェリーのおそらくは最も洗練された詩『ジュリアンとマ
ッダロ』において、タイトルに現れた2人の登場人物は、シェリーとバイロン卿の間
で実際に交わされた会話を再現している。ジュリアンはシェリーに対応する役だが、
その主張の山場において、急進的な社会変革が起こりうる可能性について熱弁をふ
るう。曰く、「僕たちは別のものになれるかもしれない。僕たちはすべてになれる
かもしれない。/僕たちが夢見るような、幸福で気高く偉大なものすべてになれる
かもしれない」。これに対しマッダロは素っ気なく答える。「君が語っているのは
ユートピアだ。……君に似た男を僕は知っている。/……/僕は彼と今みたいなこ
とを議論したんだ。そして彼は/今や狂人さ」。

 このやり取りは、ユートピア的な言説のよく知られたジレンマを見事に描写して
いる。一方では、真に革新的な変化を想像し、そして達成するためには、ある者は
「ユートピアを語ら」ねばならない。どこか別の場所を思い浮かべるためには、つ
まり、ジュリアンが言ったような「別のもの」であるためには、どこにも存在しな
いものが持つ漠然とした力が必要なのである。要するに、ユートピア的な言説は未
来の出来事に対して、いわば「住所と名前」を与えるのだ。しかし他方では、マッ
ダロが間髪入れず指摘したように、ユートピア的な言説は大きな代償を伴い、そし
て自壊の種子を内含している。ユートピア的な言説は、実現がほぼ不可能であると
いうことに付きまとわれ、実現し難い将来を伴うのである。ユートピア主義者たち
はドナルド・デイヴィーとジョン・バレルが「信用貸の」言説と呼んでいるような
形式で機能する。この言説は抽象化の段階ではたらき、突き詰めるとそれを有意義
だと信じるか、その企てを全て退けるかのいずれかへと我々を導くのである。ユー
トピア主義者の希望はひょっとすると払い戻されるかもしれないが、ずっと先まで
換金できない可能性もある。ユートピア主義者の希望とは、未来なるものの約束手
形なのである。

 ロベルト・ブーザ神父の手による『トマーゾ目録(Index Thomisticus)』の事業
で1940年代初頭に創始された「旧式のコンピュータを使った人文学」のバラ色の夜
明け以来、今日の現代「デジタル人文学」の絶頂に至るまで、当該領域に付けられ
たこれら2つの名称を区別する決定的な要素は、他でもなくその将来性に、あるいは
その将来がどのように思い描かれてきたかにあった。非常に長い間、人文学におけ
るコンピュータの使用は基本的に、人文学者がすでに行っている事業の延長と見な
されてきた。そして人文学におけるコンピュータの使用は、言語学や統計学、書誌
学や文献学などといった分野において幾分かの発展を遂げた。しかし今日では、コ
ンピュータの使用は人文学のあらゆる分野に適用でき、人文学そのものを変革する
力があると多くの人が考えている。本講演で注目したいのは、デジタル人文学のユ
ートピア的な将来性と、それに付随する諸々の将来性である。

 米国現代語学文学協会(Modern Language Association)の前会長マイケル・ベル
ベが『高等教育年鑑』に記したように、人文学者は生まれつつあるデジタル人文学
の領域へ「非常に多くの期待と不安を寄せて」きた。「どういうわけか我々は、デ
ジタル人文学が学術コミュニケーションに革命をもたらし、大学出版局を救い、査
読の手続きをクラウドソーシングし、人文学の博士号取得者に図書館や研究機関、
NPOやイノベーティブな新興企業における雇用を提供するだろうと期待し、そしてデ
ジタル人文学がこれらすべてを来週かそこらまでに成し遂げるだろうと期待してい
る」。リタ・レイリーは同じようなことを別の観点から指摘している。「誰もが知
るように、デジタル人文学は文学研究の伝統的な研究手法に重要な貢献をした。と
りわけ、規模についての刺激的な問題を提起したこと、マルチモーダルな学術、そ
して読み書きのやり方を変えたことに関してはそうだ。しかしながら、どうしてデ
ジタル人文学が当該分野におけるあらゆる危機とあらゆる方法論の行き詰まりの解
決策としての役割を担うようになったのか疑問に思う向きもあるかもしれない」。
これら2つの意見が示唆するように、デジタル人文学のユートピア的な将来というも
のは、それに伴う将来性を実現できる可能性との間に厳しい緊張関係をはらんでい
る。

 思い出してほしいが、今からわずか4年前、デジタル人文学は学術シーンにおける
「次なる一大事」であると宣言されていた。さらに我々は、デジタル人文学が正確
には何であり何ではないのかという問題に固執している段階から、今もなお完全に
抜け出してはいないのである。この問題に対する強い関心と熱い議論は、答えにか
かっている懸賞金が高いと考えられていることを反映している。私は「デジタル人
文学の歴史と将来」に関する米国現代語学文学協会の集会で、デジタル人文学の正
確な定義に拘泥するフロア内の人たちに対して落ち着くよう言いたくなった。とい
うのも、私はロマン主義者なのだが、私たちはこの分野の定義について、ロマン主
義という用語の誕生から150年が経った今もなお一般的な合意に至っていない。にも
かかわらず、このことはどういうわけか、ロマン主義が今なお躍動的かつ活発であ
り続けている要因となっているのである。だが他方で、このことはロマン主義を、
18・19世紀へと姿を消していく脆弱な領域にした。つまり、マット・キルシェンバ
ウムやキャスリーン・フィッツパトリックらが主張するように、「領域がないとい
うこと」はデジタル人文学にとって、物質ないし制度の現れであり、結果なのであ
る。

 しかしながら、フィッツパトリックは「学問領域」の存在が代償を伴うのかにつ
いて、すなわち「領域を定める必要性によって私たちがどの程度束縛されるのか」
について、はっきりと疑念を抱いている。彼女は問う。「今や我々の機構は公式に
制度化されたのだから、為されない会話など存在するだろうか」。デジタル人文学
は人文学の歴史において熱狂的かつ比較的稀有な瞬間に立ちあっているように見え
る。この出現しつつあり、変革の力を持つ領域と思しきものの最先端においてこそ、
デジタル人文学の用語と行動の意味は容易に確定されるのである。しかしながら、
フィッツパトリックによる警告は、デジタル人文学の正確な意味とは何かを議論す
る際に必要とされる冷静さをもたらすはずだ。というのも、デジタル人文学の領域
を定めようとする試みはいつも、デジタル人文学において最も重要で実現性のある
ものを失う危険をはらんでおり、特定の実現すべき将来性を伴ったデジタル人文学
の見通しを伝えるのである。

 もちろん、目下最も大きな疑問の一つは、そもそもデジタル人文学は、実のとこ
ろ一つの領域なのか否かという問題である。今なお多くの人が、デジタル人文学は
それ自体で一つの領域であるというより、人文学分野を横断する一連の方法論であ
ると考えているが、また他方で、デジタル人文学の専門家の多くは、自身がすでに
よく確立された制度的基盤に根ざした領域に携わっていると考えている。ではデジ
タル人文学にとって、その領域はどこにあるのだろうか。「どこにもない」、そう
答える人に対して、スティーヴ・ラムジーなら次のように反論するだろう。「デジ
タル人文学は実体のない教育機関のようなものではなく、一連の実体のある場面の
集合なのである。そこに含まれるのは金銭や学生、資金提供機関、マンモス校や小
規模校、プログラムやカリキュラム、守旧派や前衛派、管理人や名声である。デジ
タル人文学がこれらのものを超えることはあり得るが、これらのものでなくなるこ
とはない」。

 しかしながら、領域とは線的な境界によってつくられるものであり、デジタル人
文学の実際の領域を定めることは今なお議論の的となっている課題の一つである。
この課題は、デジタル人文学と新しいメディア研究との、ものづくりの作業と理論
形成との、方法論と観念体系との、機能提供と研究との、そして「デジタル人文学
の巨大な天幕」とより狭義の領域との、挑発的かつ問題含みの対立を含んでいる。
このような課題に関して、私が特に興味深いと思ったのは、マーク・サンプルが行
った次のような挑発行為である。ただし、この挑発は私が今しがた言及したような
物質的現実とは相容れないのではないかと思われる。

 「定義や分類について気を揉むのをやめ、混ざり合っていることを礼賛しよう。
周辺部が提供するものすべてを利用しよう。今自分の行っていることを行い、行い
続けよう。部外者を巻き込み、協力体制を築き、共同戦線を張ろう。そして移動す
る時が来たらそうしよう。刷新し破壊すべき別の周辺部を見つけよう」。

 サンプルの戦略が立脚するのは説得力のある見通しだ。すなわち、当該領域を必
ずしも、言ってみれば単一のものと見るのではなく、あるいはより正確に言えば単
一の物事と見るのではなく、コンピュータの使用やアルゴリズム的方法が人文学の
方法論にどれだけ問いかけや変革、革新をもたらすことができるかについての、動
的な思考や製作、協業の過程と見るのである。このような動きはデジタル人文学の
作業に関して、戦術的というよりむしろ戦略的な水準で、ユートピア的な可能性を
提示する。私は戦略を称賛し戦術に反対する大陸合理論的な二項対立に賛成はする
が、戦術のために戦略を完全に拒否することは、より大きな機関がないままにデジ
タル人文学を放り出す危険を冒し、後で簡潔に考察するような一種の新自由主義的
な吸収行為へとデジタル人文学を解き放ってしまうものと確信している。デジタル
人文学には戦略と戦術の両方ともが必要だと考えられる。

 おそらく、デジタル人文学に最も欠けていたものとは、学界の内外における自ら
のより大きな位置と価値に関する、広範さと説得力をもった戦略的な見通しである。
ジョアンナ・ドラッカーが言うには、
 「デジタル人文学に対する現実の課題は今なお知的なものであり続けている。す
なわち、この領域における仕事は、人文学研究の理論や方法、コーパスに対してど
れほど貢献するのかという課題である。この疑問は私たちがツール製作、プロジェ
クトの進捗や運営、制度の構想やプログラムの価値を評価するやり方の核心に直結
する。人文学の領域は他の分野と同様に、理論的アプローチ(思考のやり方)およ
び方法(行動のやり方)、そして研究対象(研究活動に先だって存在し、また研究
活動によって構成されるもの)によって構成される。もちろん私は、デジタル人文
学のプロジェクトが遺したものの中にはこれらすべての事例が含まれていると考え
るのだが、ここで柔らかい主張の代わりに見られる厳しい語調は今なお完全には展
開されていない。さもなければ、我々がこの主張を行い続ける必要はなかっただろ
う」。

 ドラッカーによるデジタル人文学への呼びかけは、より戦略的な自己反省を目的
としており、本質的には当該領域のユートピア主義に賛同している。同様にして、
アラン・リューはより戦略的に、文化批評に関わるデジタル人文学に対する非常に
影響力の大きい以下のような呼びかけを行っている。

 「デジタル人文学に携わる研究者は、単なる『食卓の召使い』でなく平等な立場
の協力者となるために、例えば、メタデータに関する批判的な考察が、権力や金融
などといった世の中における統治の決まりの批判的考察へ拡張できることを示す方
法を見つける必要があるだろう。〔…〕しかしながら、今日の脱工業化的ないし新
自由主義的で、企業的ないしグローバルな情報を伴った巨大な資本の流動を、デジ
タル人文学はいかに前進させ、導くことができるのか、あるいはそれに対していか
に抵抗することができるのかという問題は、〔…〕デジタル人文学の学会やシンポ
ジウム、学術雑誌やプロジェクトにおいて、管見の限りではほとんど見聞きするこ
とがない」。

 3年少し前に「デジタル人文学における文化批評はどこにあるのか」を公開して以
来、リューによるこの領域の政治文化に関する問題提起への反響は大きく、「
#transformdh」の運動の発展に活気を与えることになった。「#transformdh」とは、
人種や階級、ジェンダーや性差、障碍に対するデジタル人文学の作用が相対的に不
足していることを批判ないし強調することを目的とする運動である。同様にして「
#pocodh」の運動も誕生した。「#pocodh」とは、デジタル人文学とポストコロニア
リズムに関して同じようなことを行う運動である。こうした新しい運動をデジタル
人文学の主流とは反対側か、あるいはデジタル人文学の本源的な部分に位置づける
空間というものは今なお見られる。しかしながら、いずれの成果もデジタル人文学
のユートピア的な将来に対して決定的な影響を及ぼすだろう。デジタル人文学の将
来は、包括的であることや批判に対して開かれていること、自己反省的であること
や自ら変化可能であること、また同様に、変化を及ぼしうることを求めているので
ある。

 中には、今日のデジタル人文学を取り巻く状況のより悲観的でディストピア的な
説明のやり方も存在する。デイヴィッド・ゴロムビアによる最近のブログ記事には
次のような文章が掲載されている。

 「1993年と2013年現在の英語研究を観察する者にとって、次の事実は決して『驚
くべきこと』ではないかもしれない。すなわち『英文学科において』語られる新し
い運動では、批評や政治、解釈や分析、精読などはすべからく副次的な役割しか果
たしておらず、そこでは、まるで漫然とした人文学にとっての標語であるかのよう
に『口よりも手を動かせ』などと大真面目に言われている。そして『データベース
の構築は理論的な性質をもっている』のであり、したがって追加の理論化や文脈に
当てはめる作業は必要ではないと断言されている。さらに、他の主題を扱う学者は
皆が考証学者であるにもかかわらず、英文学科において主にデジタルを扱う考証学
者として就職することは実質的には不可能である」。

 実際、もしもユートピア主義がその悲観的な側面を生み出すことを避けられない
のなら、これらの問題は「デジタル人文学の暗黒面」と呼ばれるものの形で表れる。
「デジタル人文学の暗黒面」とは2013年の米国現代語学文学協会の大会で物議を醸
したシンポジウムの表題であり、ウィリアム・パナパッカーによる『高等教育年鑑』
の以下の言葉によって劇的に締めくくられた。

 「デジタル人文学は多様性に欠けている。デジタル人文学は(役職の多くが寄付
金によって賄われているにもかかわらず)自らを大学機関への就職への近道と偽る。
デジタル人文学は『技術ユートピア主義』に罹患し、『あらゆる問題の特効薬を自
任』する。デジタル人文学は『盲目的で味気のないデジタルの抱き込み』である。
というのも、デジタル人文学はコード化やゲーム化を優先してより人間的な諸々の
行動を阻害してしまうのである。デジタル人文学は他の人文学と距離をとる。すな
わち、単に「次なる一大事」であるだけでなく、「唯一の物事」であると自任する。
デジタル人文学はデジタル人文学の研究者が浮上している限り、他のすべての人文
学研究者に沈降を許す。デジタル人文学は高等教育の新自由主義的改革と共謀する。
というのも、デジタル人文学は『官僚やテクノクラートの論理に従』い、またデジ
タル人文学の最も強力な支援は、デジタル人文学の研究者を金のなる木と見なす行
政官によってもたらされ、人文学教育の「創造的破壊」に加担するのである。そし
て最も容認できないことに、デジタル人文学の研究者は人文学を徘徊する妖怪、す
なわちMOOC(Massive Open Online Course)という妖怪と結託している」。

 これらの告発のうちいくつかは容易に反駁されうるし、「MOOCという妖怪」とは
全くの目くらましに過ぎない。ただし、これらの告発が組み合わせられたときの、
のっぴきならない荷重はパナッカーによってうまく要約されている。曰く、「デジ
タル人文学とは要するに、経済危機に対する日和見主義的かつ実用主義的、機械的
な応答である。デジタル人文学は『資本主義の暗黒面』を表しているのだ」。この
ディストピア的な比喩表現において、デジタル人文学は事実上、あらゆる誤った動
機に益を成してきた人文学に対する新自由主義の陰謀である。デジタル人文学に携
わる研究者の多くは、この動機をまさに、人文学者と結果だけを気にする新自由主
義による人文学の再構成とを『隔てる』ものと考えている。しかしながら私はこう
した暗黒面の要求を、陰謀論的な要素は別として、真面目に受け取る必要があると
考える。なぜかと言えば、デジタル人文学という領域の主要な言説には「革新」や
「破壊」、「変革」や「企業家精神」などといったキーワードが含まれているため
である。これらの用語は皆、言わば暗黒面への抜け穴を含んでいるのだ。したがっ
てデジタル人文学は、リューらの訴えている批判的な文化意識がなければ、常に暗
黒面の住人が目指すものへと変わり、ユートピア的な潜在能力を失ってしまう危険
にさらされている。

 例えばゴロムビアは、当該領域の内部においてデジタル人文学を単なるものづく
りと捉える「狭義の」理解が蔓延していることを警告しているが、この「狭い定義
」が多くの人にとって好ましいものでないことをデジタル人文学の研究者は理解し
ているので、彼らは「デジタル人文学の巨大な天幕」を堂々と張るのである。「デ
ジタル人文学の巨大な天幕」は一般に包括的なものとされており、「特に〔…〕部
外者に対して〔訴えかけるとき〕はそうだ。しかしながら他方では、資金調達や雇
用などといった重要な領域が定まった活動で『狭い』定義を主張し続けている」。
この見通しの中でデジタル人文学は、まるで羊の群れの中の狼のように、英文学研
究の中に侵入してきた。そして最初のうちは「我々は皆さんがすでに行っているこ
とをするだけです。ですから皆さんはプロジェクトの紛うことなき一部として我々
を受け入れるべきです」と主張していた。しかし一たび扉を破れば、デジタル人文
学に携わる研究者による効力をもつ「狭い定義は、これとはほぼ対極的な感情にラ
イセンスを与える。すなわち、『我々の行うこと(ゴロムビアの言うところのもの
づくり)はお前たちとは全く異なっているから、我々と協働したいのなら自分の基
準や手法を変えなければならない』と言うのである」。ゴロムビアは次のように結
論づける。「デジタル人文学は、デジタル世界における他の多くのものと同様に、
結局のところ英文学研究の他の形式と『全く新しいものと全く同じもの』の両方を
言い張ることになる」。

 私自身は、ゴロムビアが言うような悪意による系統的で領域全般にわたる実践の
事例をほとんど見たことがないし、いわゆる「狭い定義」に関するいかなる合意を
見たこともない。むしろ反対に、当該領域のそうした定義に今なお見られる自己主
張は領域そのものの系譜によるものだというパトリック・スヴェンソンの評価に同
意したい。スヴェンソンにとって、ゴロムビアの言う「狭義のデジタル人文学は、
人文学におけるコンピュータの使用に端を発する。そして〔…〕今なお数多くの支
持者をもっている。〔…〕広義〔のデジタル人文学〕はより新しいもので、近年の
活況や白書、指導層の対談と明確に関係をもっている。広義のデジタル人文学はま
た、多くの『新参者』と関係を持っている」。

 実際、これまで私がデジタル人文学のユートピア的な言説として説明してきたこ
との多くは「広い定義」の事業において現れ、「(多くは領域の外で起こっている)
近年の活況」、「白書」や「指導層の対談」、補助金獲得のための方便やマニフェ
ストによって生み出されたものである。当該領域のユートピア的な潜在能力がこの
上ない強さでにじみ出た声明は、おそらく、『デジタル人文学宣言2.0』の事例であ
る。この宣言は2009年に発表されたものだが、デジタル人文学のユートピア的な核
心を「1960~70年代における対抗文化と電脳文化〔の絡み合い〕からの継承によっ
て形作られた」ものとして位置付ける。曰く、「このことが理由となってデジタル
人文学は、開かれていることや限りがないこと、広がりをもつことや大学・博物館
・文書館・図書館が外壁をもたないこと、文化や学術が民主的であることの価値を
強調し、また同時に、人文学と社会科学および自然科学との壁を打ち破るような、
大規模な統計に立脚した方法(例えば文化分析)の価値も強調する。また、このこ
とが理由となってデジタル人文学は、著作権や知的財産権の基準が資本の束縛から
解放されるべきだと信じるのである」。

 ここで生成されるデジタル人文学の系譜はその歴史叙述や論理と競合しうる。す
なわち、今日のデジタル人文学のユートピア的な価値観を60~70年代の電脳ユート
ピア的な興奮の単なる修正版として因果的に説明することはできない。『宣言』の
主張は「このことが理由となってそれはXやYを強調する」とか「このことが理由と
なってそれはZだと信じる」と言って始まるのだが、両者に直接の連関をもたせたこ
とは、恐らく『宣言』の筆者のイデオロギー的戦略である。だが、たとえそうであ
ったとしても、私が考えるに、それはデジタル人文学を電脳ユートピア主義の無力
な形態として片づけることにつながる。

 『宣言』に深く埋め込まれた論理とは、デジタルなマルチメディアのもつアフォ
ーダンスは学術を根本から変革しうるというものである。学術研究における実践は
何世紀もわたって印刷物がアフォードするものによって形作られてきた。かくして
デジタル人文学は「世界について創設的な役割を演じようとする。この世界では知
識や文化の単一の生産者ないし世話役、普及者はもはや存在せず、ここで大学に求
められているのは、新しく出現した現代の公共圏(WWW、ブログ空間、デジタル図書
館など)にとっての学校的言説のデジタルの手本を自然に形作ること、この領域に
おける優れたものや新しいものの模範を示すこと、そして知識の生産・交換・普及
のローカルかつグローバルなネットワークの形成を容易にすることである」。

 一方でこうした努力は、量的かつ道具に依存するデジタル人文学だけでなく、「
質的かつ解釈的、経験的かつ感情的で、生成的な性格をもつデジタル人文学」を求
める。このようなデジタル人文学は理論と製造との対立を破壊する。すなわち「知
識というものは多様な形態をとり、言葉や音、におい、地図、図形、設備、環境、
データ貯蔵庫、表、そして物体の隙間や交点に定着する。物理的な製造やデジタル
上の設計、洗練された様式や印象的な散文、画像の並置、動画の合成、音声の編集
、これらはすべてものづくりである」。こうしたデジタル人文学の見方は完成品よ
り製作の過程を重視し、個人製作よりも共同製作を重視し、学際性やネットワーク
化、多様性、キュレーションやシェア、手作りや再編集、挑発的で暫定的であるこ
とを重視する。また、こうした見方が注目するのはまさに批評の物質性である。こ
れは文学研究において、読解や解釈、執筆といった言語学用語としてのみ用いられ
ることが多い。そしてこのことが示唆するのは、デジタル人文学が他の視覚芸術や
舞台芸術その他の当該分野が着目する実践と同様に、英数字の外部で批評を行い、
抵抗はいつも物質の水準で起こるという格言に新しい力を与えることができる。ト
ッド・プレスナーがおそらくはこの観点から述べたように、「デジタル人文学とい
う実践ないし製作のパフォーマンスは、人間や社会や物質の偶発性によって左右さ
れ、これらはすべて変革の実践に結実する潜在能力をもっている」のである。

 『宣言』にとって「デジタル人文学」という領域名そのものは「戦略的な本質主
義」であり、一連の目的を共有する人々やプロジェクトが革新的な共同プロジェク
トに加わることを可能にする。しかしながら、『宣言』が砂の上にユートピア的な
線を書き込むのは、デジタル人文学を「デジタル的転回をもたらしながらも人文学
を無垢なままに保つ」ものとして、すなわち「同一の安定した分野の境界の内部で、
社会について、あるいは過去百年以上にわたって優勢であった社会科学と自然科学
について作用する」ものとして理解するのを一切拒むことによってである。同時に、
『宣言』はデジタル人文学が人文学の「内部の」位置からこの変化をもたらすもの
だと見なされ、「外部からデジタル人文学が指導し、人文学が従うのではない」と
主張している。そうではなく、デジタル人文学はブレイクによる『天国と地獄の結
婚』と同様に「融合と摩擦」によって特徴づけられる。そこでは「技術の進歩や展
開と、芸術や人文学を特徴づけるような研究課題や要求、創造的な作品とが融合す
るのである」。

 かく言う私もこの問題に関しては悪魔の陣営に属することを告白しよう。という
のも、私はこの『宣言』の威勢のいい空威張りと、最近出版された一冊分の外挿で
ある『デジタル人文学』(アン・バーディックおよびジョアンナ・ドラッカー、ピ
ーター・ルーネンフィールド、ジェフリー・シュナップによる共著)(訳注:この
本の一部である『DH入門』には邦訳されたものがあるので参照されたい:
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/CEH/index.php?sg2dh )に魅力を感じたのである。
本書の予期する新しい人文学を特徴づけるのは、いくつか例をあげると、学問分野
の再編、環境データ、分厚い地図、動画を使ったアーカイブ、学生の学芸員、アマ
チュアの人文学者、デザインベースの思考、量的に計測可能な解釈学である。本書
の共同執筆者にとって、デジタル人文学は「人文学の範囲の主要な広がりを正確に
表す。なぜならデジタル人文学は、価値観、表現および解釈の実践、意味を形成す
る戦略、人間であることの複雑さや曖昧さを、あらゆる経験の領域や世界の知識へ
ともたらすからである。デジタル人文学とはグローバルで歴史横断的かつメディア
横断的な知識への接近方法であり」、「人間であることの中核となる創造的活動」
が根底から変化し、「人文学の価値体系や知識が文化や社会の全分野の形成にとっ
て重要なものと見なされる」文化的な時期における「意味形成」なのである。

 この主張に見られる大胆さはおそらく、デジタル人文学をより大きな学術的かつ
人文的な企業の内部へ戦略的に位置づけることを求めるドラッカーの声明に対する
返答である。この説明においてデジタル人文学が参入する企業は、数多くの栄光の
雲のような付随する将来性を追い求める。共同執筆者たちが一連の誤った事例研究
を含むことによって認識した通り、またTwitter上におけるデジタル人文学コミュニ
ティの一部や、キャスリーン・フィッツパトリックが最近の書評によって行った本
書への懐疑的な応答によって示された通り、この種の「雲の上からの発言」は、い
かにして地に足の着いたものとなるのか、また、いかにしてデジタル人文学の将来
と実現可能な将来との隔たりを縮めるのかという疑念を呼ぶ。こうした考えから、
私は今日のデジタル人文学の業績の根底となっている一つの重要なユートピア的主
題について、一つの現場からの見方を提示したい。

 手始めに1935年まで時計の針を戻そう。このとき『イェール大学紀要』に掲載さ
れた歴史学者ロバート・C・ビンクリーの論文が、次のように主張した。「マイクロ
コピーの技術は、過去20世紀にわたって印刷出版が成し遂げられなかったものをも
たらすだろう。すなわち読者の望むものを正確に提供し、読者の使用したいものを
何でも持ってくるのである」。ビンクリーはスミス・カレッジで教えていたが、よ
り民主的な学風を生み出すプロジェクトに深く携わっており、そのための重要な手
段としてマイクロフィルムや謄写版のような新しい複製技術を見出した。例えば、
世界恐慌時のある官公庁による50万ページ分の文書が図書館に対して5千ドルという
事実上入手不可能な価格で提供されるのに対し、マイクロフィルムでは同じ文書が
わずか421ドルしかかからないのである。こうした文書印刷および複製の莫大なコス
ト削減は、アマチュアの学術行為に対して見返りをもたらす可能性をもっていた。
このプロジェクトは印刷費用によって、また結果として起こった出版産業の支配に
よって無力なものとなったが、そのことは重要な一次資料へのアクセスを制限し、
注釈や学術研究を出版するか否かの決定権を学者の手から奪った。ビンクリーによ
れば、学者は「科学的事実の本体へ入るための出版という過程を通過して、はじめ
て知への貢献ができる」。ビンクリーのユートピア的な構想では、安価な出版と印
刷技術が容易に手に入ることによって、さもなければ知の生産から排除されるであ
ろう学者は、知の創造や普及に参与することが可能になる。かくしてビンクリーは
「すべての家庭に浴室が、すべての車庫に車があるように、すべての校舎に学者が、
すべての町に作家がいる」ことを求めて、「この目標に向けて技術は新しい装置を
提供し、方向性を指し示すのだ」と結論づける。

 思うに、ここでビンクリーが概略を述べたのは「一般参加という虚像」とでも呼
びうるものである。学界は今なおこの虚像に捕われており、この期間や結果へと人
文学の事業に参加しようとする人を巻き込んでいる。1935年における新技術が人文
学への広範な参加の道筋を示したのだとすれば、第二次世界大戦後の大学における
研究の巨大な変化は、人文学の専門分化が積み重なった結果、学界や公衆がさらに
分割される時代の先駆けとなった。アマチュアの人文学者や作家は次第に見出すこ
とが困難となり、今日の学界で絶え間なく繰り返される「危機に瀕した人文学」と
いう言辞は、ただ単に「彼ら」が「我々」を相手にしないという意味へと化してい
る。しかしながら、ビンクリーと同様に、多くのデジタル人文学の研究者は、今な
お技術と新たな装置が方向を指し示すことができると信じている。

 最近公開された「批判理論および大破したデジタル人文学」と題する小論におい
て、トッド・プレスナーによって定められたデジタル人文学の中核となるユートピ
ア的理念とは「条件なしの参加」である。プレスナーにとってこの概念の出発点は、
デジタル人文学がいかにして「基本的に関わりをもつ共同体の協力者や文化団体、
民間企業やNPO、政府機関や一般大衆の一部がするような学問の理解」に対して学界
の壁を透過性にしているか、また、いかにして「学問の概念と公共圏の両方」を拡
張し、「社会参加や文書の活用、協働作業のための新しい場所や結節点」を創造し
ているかということである。そうすることによってデジタル人文学の研究者は、「
例えば社会正義や市民参加の問題を中心へ位置付けることができるようになる。ま
た、デジタル人文学に携わる研究者は、市民を学術事業に組み込んだり学問をより
広い公共圏に持ち込むことで、文化的な記録に再び生命を与えることができる」。
しかしながら、プレスナーによる「条件なき参加」という方式はあくまで理想論で
あり、デジタル人文学に携わる研究者が目指さねばならないのは「想像上の投機と
倫理に通じた社会参加」という翼の上である。「その中のあるものが約束するのは、
デリダ的な意味の『到来者(arrivant)』において、人文学の前形成によって組み
立てられた限界や境界を超えることだが、多くは今日の様々な道で深く排他的にな
っていたり、層状になったままである」。我々は今いる場所から離れてゴロムビア
の言う自ら閉鎖的で裏表のある領域へ行くことなどとてもできない。

 デジタル人文学への参加の転換に関するプレスナーの議論が発展してきたのは、
声なき者に声を与えたり保存したりする社会正義のプロジェクトという観点からと、
「デジタル人文主義」と呼ばれることもある慣習の両方によってである。後者に関
してプレスナーが持ち出す一つの目立った事例は、カリフォルニア大学ロサンゼル
ス校の「HyperCities Now」というプロジェクトである。このプロジェクトは日本に
おける壊滅的な地震と津波を受けて、「GISCorpsとCrisisCommonsのボランティアチ
ーム」と協働で「ソーシャルメディアからの65万以上のフィードを(津波が襲った
地域や避難所、交通状況や公衆電話の位置を含む)GISデータにマッピングすること
で、災害救助のために即時に決定を下すことができるようにした」。プレスナーが
指摘するように、「既存の道具や技術のアフォーダンスを利用したり再度目的をも
たせることで、デジタル人文学のチームは〔…〕断固たる介入主義者の役割を演じ
た。災害に対処し、災害を記録するという公共的な役割さえも演じた」。こうした
画期的な公共事業は、デジタル人文学が大学という壁の外にまで到達するという素
晴らしい未来を見せてくれる。

 いかにして文学の教室という壁の外にまで到達するかというより具体的な課題は、
デジタル人文学の参加の転換に対する私自身の参与に関係する。それを議論する前
に、ここで背景となる3つの声明と3つの疑問、そして2つの文脈を提示したい。

 3つの声明とは、(1)今日の学界は19世紀の制度であり、そこでは20世紀の教育
課程が21世紀の学生に対して教えられているとするデイヴィッド・マーシャルの観
察、(2)人文系の学部生の90パーセントが人文学の研究というものが存在すると知
らなかったことを示す一つの研究の結果、(3)人文学者は「ビッグデータ」だけで
は興味を示さず、「深いデータ」を求めるのだというマイクロソフトリサーチのド
ナルド・ブリンクマンによる主張である。

 3つの疑問とは、(1)どうすれば人文学者は我々のデータセットを最もよくキュ
レーションしたり検索することができるのか、(2)どうすれば我々は自分の研究を
大学院生や学部生へ届けることができるのか、(3)どうすれば我々は公衆を、すな
わち「アマチュアの人文学者」を人文学の研究と結びつけることができるのかであ
る。

 2つの文脈はどちらもテクストであること自体がもつ変化しやすい性質に関するも
のである。(1)前者はジェローム・マクガンが近年「『テクストの環境』から『デ
ジタルの環境』へのグローバル化された移行」として説明したものに関連する。こ
こで我々の受け継いできた文化的記録はすべてデジタル化され、「デジタルの保管
や利用、普及のネットワークにあわせて」再編集を必要とするだろう。そして、こ
の移行が最も顕著となるのは、テクストの出版や記録そのものの形が変化する場面
である。マクガンが指摘するように、それはいつも「我々が知識を具体化してきた
膨大かつ分散型のテクストのネットワーク」のモデル化ないし理論の例示として提
供される。(2)第2の文脈はフォルジャーの専務理事マイケル・ウィットモアが「
テクストのアドレス可能性」と述べるものに関連する。ウィットモアは、テクスト
がテクストたりうるのは「異なった大きさで絶対的なアドレスを指定することがで
きるからだ」と主張する。

 「ここで言うアドレス可能であるとは、ある特定の抽象化の水準において、テク
スト内部の位置を問い合わせることが可能であるという意味である。〔…〕したが
って、書籍や物理的な場とはアドレスの多様な階層のうちの一つであり、より大き
な母集団に戻せば、関連する階層のアドレスにある種類の作品を手に取ることもあ
るかもしれない。あるいは印刷の個々の行について、また、それぞれの行における
すべての名詞について、あるいは3行ごとの3文字目について語ることもできるだろ
う」。

 それぞれの抽象化の水準は、書籍も含めて、「一時的なまとまりであり、アドレ
スの目的によって、あるいはアドレスの対象によって安定する」。したがって、ウ
ィットモアにとって広大なアドレス可能性はテクストの存在条件に他ならず、それ
は個別のテクストを見るときもテクストの総体を見るときも同じである。そしてア
ドレス可能性の幅と可動域はデジタル化によって飛躍的に拡大される。このことが
可能にするのは巨視的な水準における反復分析やデータ解析、ヴィジュアル化にお
ける抽象化の水準のさらなる探査だけでなく、微視的な水準におけるキュレーショ
ンの対象としての語句や句読点の扱いの容易化である。

 この特殊文学的な文脈における「キュレーション」という用語によって私が意味
するのは、例えば複写や蒐集、注釈やエンコーディングなどといった、ビッグデー
タを深いデータへと作り変える多様な活動である。悪名高きGoogle Ngram Viewerが
示した通り、人文学者は「汚い」データや文脈に当てはまっていないデータを信用
しない。例えば、何の補正もかかっていないOCRはある種の大規模なデータ解析にと
っては「用をなす」かもしれないが、それはあくまで他の多くの用途のためにテク
ストの仲介を行う長い道のりのほんの初歩にすぎない。このデータをキュレーショ
ンする作業は控えめに言ってもそれ自体膨大である。

 例えば宇宙飛行士は「Galaxy Zoo」のプロジェクトにおいて、デジタル技術を活
用した市民参加による科学のもつ精力や熱意、知性を利用し、星図を作成すること
に成功している。人文学者も同様のことを始めており、ユニヴァーシティ・カレッ
ジ・ロンドンの「Transcribe Bentham」プロジェクトやニューヨーク公共図書館の
「What's on the Menu?」プロジェクトなどの成功例に結実している。後者では百万
人を超える人々が参加して、ニューヨーク公共図書館の歴史的収蔵品である4万5千
を超すニューヨーク市内にあるレストランのメニューの文字起こしとマッピングを
行った。このプロジェクトの成功を受けて、ニューヨーク公共図書館は近年「
Ensemble」なるプロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトを通じて市民は、オ
ープンな芸能データベースとして使用するための歴史的収蔵品である演劇のプログ
ラムの文字起こしに携わることになる。ニューヨーク公共図書館はオープンソース
・ソフトウェア「Scribe」の応用に成功した。このソフトウェアを最初に作ったの
はZooniverseという市民参加による科学事業のための組織である。このソフトウェ
アは自分でもネットワーク型の一般参加プロジェクトを立ち上げたいと願う人文学
者にとって非常に励みとなった。

 私自身もネットワーク型の一般参加によるキュレーションという同じ目的をもつ
3つのプロジェクトに携わってきた。以下ではそのうちの一つについて手短に説明し
よう。シェリー=ゴドウィン・アーカイブ(Shelley-Godwin Archive)というプロ
ジェクトにはメリーランド大学の人文学テクノロジー研究所(MITH)やボドリアン
図書館、ブリティッシュ・ライブラリー、ホートン図書館、ニューヨーク公共図書
館が参加した。このプロジェクトに含まれるのは、メアリー・ウルストンクラフト
およびウィリアム・ゴドウィン、パーシー・ビッシュ・シェリー、そしてメアリー
・ウルストンクラフト・シェリーによる作品と知られているすべての手稿文書であ
り、その目下の第1弾にはパーシー・シェリーによる全ての作業メモも含まれている。
これはボドリアン図書館に23点、ハンチントン図書館に3点、ハーバード大学に2点、
ニューヨーク公共図書館、米国議会図書館、ブリティッシュ・ライブラリーにそれ
ぞれ1点が収蔵されている。現在は3年間にわたる第1弾の最終年度にあたるが、そこ
には『フランケンシュタイン』の手稿および決定版も含まれている。

 シェリー=ゴドウィン・アーカイブは多くの文学電子アーカイブと同様に、利用
者が貴重で世界各地に散らばった一次資料へアクセスできるようにしたいという目
標を下敷きにして始まったのだが、今ではこのアーカイブの多層からなる構造のも
つ並外れた潜在能力を利用して、総体を作業場として概念化しなおしたり設計した
り、あるいは「アーカイブの動画化」と呼ばれるようなものが行われている。その
究極の目標は、シェリー=ゴドウィン・アーカイブを物質面において大規模にアド
レス可能なものとし、利用者のキュレーションや検索を助けるような形式にするこ
とにある。そこには文字起こしの修正からメタデータの増大、タグ付けや共同作業
による注釈、共同体の文献目録や解説、分析や可視化に際しての道具の使用、そし
て動的に変化する出版や展示の形成が含まれている。このようなアーカイブは究極
的には共有物の形式をとり、それを通じて収録されたテクストに関連する多様な言
説のネットワークが、学界とアマチュア人文学者の間で、あるいは好奇心の強い人
と遊び心に満ちた人の間で、錯綜ないし可視化される。そして、結果として生み出
されたデータはそれ自体が分析や可視化の対象となる。

 例えば、利用者が生成した活動のヒートマップにより、『フランケンシュタイン
』の中でどの章が最も多くの興味を集めたのかが正確に示されるとき、今度はその
関心の源を明らかにするさらなる探求が可能になるのである。こうしたデータは、
例えば、小説の新しい教育方法を生み出し、あるいは現代における小説の受容の新
たな実例を提供することができるだろう。

 去年の春、我々は簡単に取り組める手法を用意して実験を行い、私がメリーラン
ド大学で行っている「技術的ロマン主義」ゼミとアンドリュー・スタウファーがヴ
ァージニア大学で行っているデジタル19世紀ゼミとが協働して、100ページの『フラ
ンケンシュタイン』手稿の分散キュレーションを行うことに成功した。このキュレ
ーション作業に含まれているのは、ページ画像を文字起こししたもの同士の比較と
修正、メアリーとパーシーの手による、非常に似通っているためしばしば混同され
ている手稿文書の識別、改訂の順序の解明、全体をTEIの生成的編集の語彙に基づく
XMLへとコード化することである。したがって学生は、『フランケンシュタイン』は
実のところどの程度までパーシー・シェリーによって書かれたのかという、今なお
熱く議論されている問題についてオリジナルな成果を得、本作の該当する部分をよ
り深く解釈的に理解することができ、さらには手稿文書をデジタル形式へと転換す
ることで得られた新しいアフォーダンスを通じて、幅広い問題や方法の紹介を物質
面で受けることができる。

 シェリー=ゴドウィン・アーカイブは去年のハロウィンの日に公式にサービスを
開始し、あわせて『フランケンシュタイン』の知られている全ての手稿が公開され、
開始後24時間で世界中から6万の訪問者を数えた。我々は現在、パーシー・シェリー
の『鎖を解かれたプロメテウス』清書版手稿の分散キュレーションについて同様の
実験を行っている最中である。

 シェリー=ゴドウィン・アーカイブのようなプロジェクトを通じて、我々の目標
は人文学の研究を教室や一般公衆に委託し、学生やアマチュア人文学者を、現在進
行しているテクストの環境からデジタルの環境への大いなる文化的移行についての
活動的かつ博識で、批判的な参加者にすることにある。そうすることで我々は、急
激に拡張された公共圏の一つの部門、すなわちデジタル人文学における一般参加の
転換についてのユートピア的な希望を築く手助けをすることになるだろう。しかし
ながら、ここでさえも特筆に値するのは、いくつかの成功の見込みがあるにもかか
わらず、インフラや道具、方法や訓練、カリキュラムや文書作成、そしてこれらの
目標が要求する補助物を作成する際、行うべき難儀な作業が残されていることであ
る。これらすべては我々をたじろがせてしまうだろう。

 シェリー=ゴドウィン・アーカイブが取り上げる4人の作家は、いずれも急進的な
社会批判で知られる人物である。もちろん我々は、彼らの作品のキュレーションに
参加することが彼らの思想の質や力と結びつくことを望んでいる。メアリー・ウル
ストンクラフトと娘のメアリー・ウルストンクラフト・シェリーによるフェミニズ
ム作品は今なお色褪せていないように思われる。ウィリアム・ゴドウィンとパーシ
ー・シェリー本人はいずれも、根深いユートピア的言説に関与していた。彼らはそ
れを、人生を通して容赦なく自己反射的に問い続けた。それは本報告の冒頭の『ジ
ュリアンとマッダロ』からの引用に見られた通りである。

 もしも我々がアーカイブ構築の際に継続して自らの行動を問い続けないなら、ま
たシェリー=ゴドウィン・アーカイブが発明した一般参加型の作業が単なる道具と
化してしまうなら、それはこの作家たちを裏切ってしまうことになるだろう。途中
で失敗するという確証はないが、絶対に成功するという保証もない。この文脈にお
いて、ロバート・ビンクリーによる展望を思い出す必要があるだろう。マイクロフ
ィルムと謄写版がこのような公共圏を現出するだろうというビンクリーのユートピ
ア的な希望は、現実とは程遠いものになってしまったのである。

 たとえデジタル人文学の現場からの見方が、雲の上からの見方はどの程度実現可
能なのかという問題に陥っているとしても、現場からの見方は自らの活動に市民権
を与えて導くため、不可避的に雲の上からの未来志向の見方に依存している。実際、
カール・クラウスとトッド・プレスナーの両者が指摘したように、デジタル人文学
の未来志向は伝統的な人文学の分野の多くと異なり、投機や可能性、事実に反する
ものや憶測、反実仮想やユートピアを積極的に追求している。プレスナー曰く、「
今日、ユートピア思想は不当な非難を受けている。なぜならユートピア思想はどう
しようもないほど素朴で、かつ規範的であることを計画されているように見えるか
らだ。しかしながら、よりよい方向に変化しようという思想がなければ、建設的な
社会批判は存在しえない」。デジタル人文学は肥沃な土地を開拓してきた。そこで
は人文学が「違った風に」考えられる。批判され、再考され、同時に人文学自身も
批判を展開する。

 「『である』だけでなく『かもしれない』や『べきだ』とも関係をもつ」ような
デジタル人文学。人文学の分野の境界線を引き直し、人文学と社会科学や自然科学
との関係を変化させ、また人文学と一般社会との関係を変化させるようなデジタル
人文学。教室を共同分析の場として活性化するようなデジタル人文学。「技術の発
展や展開を、芸術や人文学を特徴づける研究課題や要求、想像的な作業」と混合す
るようなデジタル人文学。「学術コミュニケーションに革命をもたらし、大学出版
局を救い、査読の手続きをクラウドソーシングし、人文学の博士号取得者に図書館
や研究機関、NPOやイノベーティブな新興企業における雇用を提供する」ようなデジ
タル人文学。そんなデジタル人文学は無理な注文だ。デジタル人文学はこうした目
標を来週だか来年だかそこらで達成するような代物ではなく、この重圧の積み重ね
はほとんど耐え難いものである。

 テッド・アンダーウッドが観察した通り、「長い目で見れば学問分野は変化が可
能であり、実際に変化する。〔…〕ただここで示唆したいのは『デジタル人文学』
の支持者も批判者も『今すぐに』その分野が変化する将来性(および危険性)を過
大評価してきたのかもしれないということである」。デジタル人文学は現在、学問
分野の空想的な場所を占めている。そこでデジタル人文学のユートピア的な将来は、
急進的には可能であり、潜在的には不可能という揺れ動きの中にあって、付随する
将来が実現不可能であるということによる束縛を受けることなく漂流しており、ま
た同時に、そのことによって犠牲となっているように思われる。おそらく、これは
「ユートピアを語ること」が必然的に伴う代償なのだろう。

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人文情報学月報 [DHM033]【特別編】 2014年04月29日(月刊)
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