ISSN 2189-1621 / 2011年08月27日創刊
仏教学は世界的に広く研究されており各地に研究拠点がありそれぞれに様々なデジタル研究プロジェクトを展開しています。本連載では、そのようななかでも、実際に研究や教育に役立てられるツールに焦点をあて、それをどのように役立てているか、若手を含む様々な立場の研究者に現場から報告していただきます。仏教学には縁が薄い読者の皆様におかれましても、デジタルツールの多様性やその有用性の在り方といった観点からご高覧いただけますと幸いです。
vyākhyānatō viśēṣapratipattir na hi sandēhād alakṣaṇam --- Nāgēśa Bhaṭṭa, Paribhāṣēnduśēkhara 1
インドにおける言語探求の学の歴史は優に2500年を重ねてなお余りある。バラモン教の聖典であるヴェーダ文献群にちなんで成立し、まさにそのヴェーダという身体の一部を成すとみなされた六補助学(vēdāṅga, ヴェーダーンガ、“ヴェーダの肢分”)――すなわち音韻学(śikṣā)= 鼻、文法学(vyākaraṇa)= 口、語源学(nirukta)= 耳、韻律学(chandas)= 両足、祭事学(kalpa)= 両手、天文学(jyōtiśa)= 目――のうち、最も重要であるとみなされたのは他ならぬ文法学であった。有名無名の学者が紀元前より数多活躍していたと推知される中で、紀元前5世紀頃、この学問伝統はパーニニ(Pāṇini, シャラートゥラ(現パキスタンのいち村落)出身と伝わる)を輩出した。パーニニに帰されるところの現存最古の文典『アシュターディヤーイー(Aṣṭādhyāyī, “八章集”)』は、実に現代にいたるまでサンスクリット文法の最も権威あるテキストとして学習されている「決定版」である。サンスクリット文法(saṁskr̥ta-vyākaraṇa)といえば、それはまず第一義的にはパーニニ文法(pāṇinīya-vyākaraṇa)のことであり、パーニニ以降にも様々な文法家に帰せられる文法体系が世に出たものの、いずれもパーニニに範を取るものであることは隠しようもなく、その唯一無二性はいまさらの言を俟たない。言語学者レナード・ブルームフィールド(Lenard Bloomfield, 1887–1949)が、Language (1933) の中で、"This grammar [...] is one of the greatest monument of human intelligence" と賛辞を述べ、フェルディナン・ド・ソシュールやノーム・チョムスキーといった高名な現代の言語学者らの言語理論にはパーニニが与えた影響が一定程度見られるというのもよく知られた話である。最も近いところでは、2022年12月にBBCのニュース「博士課程学生、2500年来のサンスクリットの難題を解明(PhD Student solves 2,500-year-old Sanskrit Problem, https://www.bbc.com/news/articles/cg3gw9v7jnvo, 2024/04/01閲覧)」がパーニニを取り上げ世間を賑わせ、ケンブリッジ大の博士課程学生(当時) Rishi Rajpopat 氏は一躍時の人となった――ところが、肝心のパーニニの文法そのものは、世間にも、インドの古典を研究する研究者の間でも、依然として十分良く知られているとは言い難い。それどころか、ともするればどうすればそれを知ることができるのかという「取っ掛かり」ですら皆目見当がつかないというケースも多いのではないだろうか。
そもそもパーニニの文典『アシュターディヤーイー』とはどんなテキストであるか簡便に説明する必要があるだろうから少し紙幅を割きたい。このテキストはその名の通り8つの章(adhyāya、それぞれがさらに4つの四半分章 pāda に分割される)にわたって、特殊な記法によって表現された約4,000のスートラと呼ばれる短文の規則が、ある程度の文法規則カテゴリーのまとまりに従って排列されているというものである。このカテゴリーには、連声法、名詞曲用法、動詞活用法、各種名詞派生法、アクセント(ヴェーダ文献のもの)に、文法規則中で用いられる術語(sañjñā)を規定する規則や、文法規則そのものの理解・運用のためのメタ規則(paribhāṣā)が含まれ、全体として一般規則(utsarga)と例外規則(apavāda)の対比によって各々の文脈が形作られ、それぞれの規則の順番自体もまた文法規則の適用順序を示すようにアレンジされている。インドの文法家(vaiyākaraṇa)たちは、実にこの一切を記憶している。ここに属する諸要素のみによって、しかるべき文法的手続きを有限回適用して導出されうる語形こそが「正しい(sādhu)」語形たりうるのである。
さて、前置きが長くなったが、本稿で紹介する Webサイト「ashtadhyayi.com(https://ashtadhyayi.com)」はその名の通り、まさにこの『アシュターディヤーイー』をテーマとしたものである。作成者は現 Google エンジニアの Neelesh Bodas (Nīlēś Bōḍas) 氏。公開されているプロフィールによると、氏は10歳よりサンスクリット学習を始め、高等教育機関(Savitribai Phule Pune University)では理工系の教育を受けエンジニアとして働く傍ら、パーニニ文法の学習を進め、パーニニ文法のポータルサイトを個人で運営するだけでなく、Web上の教育プラットフォーム Sanskrit From Home(https://sanskritfromhome.org, 2012年に非営利会社として、インドの IT 産業の一代中心地、カルナータカ州ベンガルールに本拠を定め設立された Vyoma Linguistic Labs が運営する e ラーニングサイト)でもパーニニ文法のオンライン授業を行っている。ashtadhyayi.com は特段の要件なく各種 Web ブラウザでアクセス可能であるほか(レスポンシブデザインを採用しているのでパソコンでもモバイルデバイスでもストレスなく閲覧できる)、2024年4月現在 iOS および Android 対応のアプリケーションを通じても利用可能であり、Web 版でもアプリ版でも広告もなく無料ですべてのコンテンツが公開されている。
ここで同サイトの構成を概観すると以下のようになっている(2024/04/01現在)。
Neelesh Bodas 氏が個人の趣味として2015年に始められたものが規模を大きくして現在の姿となったというが(https://ashtadhyayi.com/about)、驚くべきボリュームである。その多くはすでにWeb上の様々なサイトやレポジトリで公開されていたものであるとはいえ、このプロジェクトのために新たに収集・デジタル化されたものも少なくない(https://ashtadhyayi.com/credits にそれぞれのデータの出自が事細かに記載されている)。インドの多くの研究者(アカデミックポストに在る者だけでなく、IT 業界など全く違う分野で活躍するサンスクリット愛好家も含む)が賛同してコンテンツの充実化が日々図られている。
目を引くものは多々あるが、最も重要で注目すべきコンテンツはもちろん (1) である。特に sūtrapāṭhaḥ(スートラ本集)は本サイトの根幹をなすものである。各スートラは各々個別のページを与えられており、個々のスートラのページには、スートラ本文・スートラ音源・スートラのメタ情報(品詞分解、継起項目、支配項目、継起項目込のスートラ、スートラ種別)・現代サンスクリットによる解説・英語による簡潔な訳・(3) の当該スートラに関連するテキスト、というようにスートラについて調べようとしたときに必要とされるような情報がひととおり網羅されている。さらに、『アシュターディヤーイー』通りの並べ方(aṣṭādhyāyīkrama)と、バットージ・ディークシタ(16c)による『ヴァイヤーカラナスィッダーンタカウムディー』(現代でも学ばれている教科書的作品)通りの並べ方(kaumudīkrama)の両方をいつでも切り替えて前後のスートラをたどることができる。本文中でも別なスートラが提示される部分はリンクになっており、いつでも該当スートラを確認することができる。
ところで、本稿の冒頭に掲げた言葉 vyākhyānatō viśēṣapratipattir na hi sandēhād alakṣaṇam は、ナーゲーシャ・バッタ(Nāgēśa Bhaṭṭa, 17–18c頃)によるメタ規則集『パリバーシェーンドゥシェーカラ』に第一則として掲げられる言葉である。その意味は「説明に基づいて特定の意味が理解される。なんとなれば、(意味に)疑いがあるからといって定義として不適格であるということはないから」というようなものである。少なくともパタンジャリの『マハーバーシュヤ』にまで遡る言葉であり、後の文法家たちの合言葉でもある。すなわち、スートラというテキストはそれ自体だけで理解されるべきものではなく、かならず説明(vyākhyāna)を伴って理解されるべきものであるという含みがある。パーニニ文法の理解が難しいのは、ひとつにはスートラ自体に含まれる語の形を、そしてその意味をつぶさに調べたところで、そのスートラが一体どのように文法規則全体の中に位置づけられ、どのように振る舞うのか、ただちには見えてこないことがある(より踏み込んだことを言えば、支配規則(adhikāra)や継起項目(anuvr̥tti)を補っただけではまだ不十分である)。ある種の暗号化を施されたテキストをデコードし、さまざまなコンテクストを与えるのは注釈の役割である。諸注釈の中には文法家たちによる長年の文法解釈の歴史が詰め込まれている。学習者は権威ある注釈書の内容に熟達した師から、あるいはその注釈書そのものから、ある文法規則が真に何を意味するものであるかを学ばなければならない。スートラはこの解釈を思い起こさせるための記憶のキーとしての役割を担う。ashtadhyayi.com はパーニニ文法の学習をするうえで必須の注釈書の並べ読みをするのに非常に使いやすい。
また、(2) の kōśānvēṣaṇam(辞書検索)は様々なプロジェクトで公開されている様々な辞書の電子データを利用し、串刺し検索を可能にしたものである。検索手段としてはデーヴァナーガリー、IAST、KH などそれぞれの方式のいずれを用いてもよい(この点に関しては、Sanscript.jp というライブラリが用いられている)。ローカルにデータをダウンロードすればオフライン環境でも学習に用いることができる。なお、つい最近、Neelesh Bodas 氏はこのセクションをベースに、独立サイトとして「sanskritkosha.com(https://sanskritkosha.com)」も立ち上げた。こちらは50以上の辞書を同時検索可能にしたもので、同じようにローカルにデータをダウンロードして利用する事ができる。ただしこちらはアプリとしてはリリースされていない。
(3) 〜 (7) のコンテンツについては特に今回は触れないが、哲学文献のデータも容易に検索可能となっている。
最後に、同サイトの問題点をいくつか指摘したい。
本サイトの管理者は連絡先を公開しており、フィードバックを常に受け入れている。(実際、筆者も何箇所か見つけた訳文の誤りなどを指摘したところ、すぐさま改善された。)日進月歩で成長している Web サイトであるから、今後が楽しみである。(欲を言えば、筆者も同じものを作りたかった!)
Marina Buzzoni による本章は[1]『Digital Scholarly Editing』の理論篇の第3章に位置し、デジタル学術編集版(以下 SDE)の中核要素をどう構築するか、何らかの指針を作るべきか、どの機能を基本的なものであるとするか等について、5つの利点を軸に具体的な事例をあげながら予備的検討を行うものである。
著者は、SDE の5つの利点とそれに付随する効果を挙げる。①紙の本では不可能な大量のデータの提示と管理、②紐づけやすさ。データ間の接続が可能であり、スピード、精度、複雑さをもって処理が可能、③コンピュータ環境および異なるコンピュータシステム間での情報共有が可能、④「マルチメディア性とマルチモーダル性」。階層的に構造化したハイパーテキストの中においてデータを組織化し、テキスト以外のデータ(音声ファイルや映像ファイルなど)を編集版に含めることが可能、⑤「ユーザーとの相互作用」である。著者は、この利点を活かす学術的な付加価値として、学術編集版における編集者の選択が検証可能になることを挙げている。批判編集版が作業仮説であるという立場に立つならば、学術編集版における編集者の選択を、読者は検証し、「実際に(編集上の)選択に反対できなくてはならない」。このような付加価値を前提として、以下の論述が行われる。
著者は、「編集版はテキスト伝承のラインである通時的次元を構成する異なる共時的段階を考慮することで、批判的に再構築されたテキストにそのテキストの歴史を組み入れることを目指すべきである」と主張する。このような状態を目指す場合、重要なのは校異情報である。というのも、テキストの構築に際し、編集者が行った選択を理解する鍵になるからである。そのため SDE においては校異情報を取扱う際、「その批判的性質を極端に減らしたり隠したりすることなく、どのようにして現代の学術的なニーズに対応させるか」が課題となるのである。
ここにおいて著者は、校異情報を取扱う際に前述の SDE の要件①を満たすためには、校異情報を単語ごとに記すのではなく、「文指向、テキスト指向のアプローチをとるべきである」と提案する。こうすることで、潜在的な利用者を増やすことにつながると述べており、例として言語学者の利用を挙げている。そうした事例として、著者は自身が現在編纂する9世紀の古ザクセン語叙事詩『Heliand』において、これまでの編集版はM写本をベースにしていたこと(写本は M、C と四つの断片テキストがある)、また、異読は校異情報に単語単位で記載されているため、文全体の変化を把握することが困難であることから、C 写本のみに見られる文レベルの言語現象が、無視されてきたことを挙げる。しかし、相互性のあるハイパーテキストの校異情報はこうした情報をより見やすくするだろう。議論は要件②の紐づけやすさへと移行する。
SDE は、「テキスト間およびテキスト内のつながりの把握のために必要な全ての証拠をハイパーテキストで提示することを可能にする」。こうした特性は、「再構築されたテキストと年代的な次元の両方を表現」する試みにつながり、著者はデジタル版の the Latin Corpus rhythmorum を挙げ、3つの時間的段階に基づくテキストを提示する仕組みを例示している。しかし、そこで示される校異情報は「直線的な構造」であり、様々な種類の情報は相互に連結している訳ではないことから「書籍の形式にも見られるようなものを模倣している」だけである。このことから要件④へと議論は移行する。
マルチメディア性とマルチモーダル性は「校異情報モジュールが満たすべき最も重要な要件」である。校異情報を、1つの証拠資料の写本やその画像と接続することは、単に情報が増えるというのではなく、「それぞれの異読の文脈を明らかにし、試験管内ではなく、生体内で研究することを可能にする」。こうした観点から、著者は『Parzival-Projekt』を挙げており、そこでは全ての資料がハイパーテキストリンクで結ばれ、「利用者はベーステキスト、異読の校異情報、転写やファクシミリの間を相互に行き来することが出来」、すべての異読が完全に文脈化されていることを示す。このように校異情報モジュールを中心に置くことは、「作業仮説としての編集版の見解と完全に一致する」。このことから、「ハイパーテキスト構造は、提供されたデータから情報を引き出す可能性を大きく広げ」るので、「デジタル形式での校異情報表現のための標準、特に TEI コンソーシアムが開発・維持する標準に準拠し、とりわけ相互運用性に優れ、長期的な存続が期待されるものである」。
著者曰く、「TEI の符号化スキームを校異情報に適用する際の最も重要な問題は、一つは校異情報をテキストにリンクさせるために従う「方法」であり、もう一つは特定の符号化の手続き」であるという。前者については、パラレルセグメンテーションが優先的に採用されており、①どの底本・対校資料のテキストも、他の底本・対校資料のテキストと直接比較することができる、②編集者があるテキストを「基本型」として特権化したくない場合や、編集者が並列テキストを提示したい場合にも有用であるという2つの点から有用である。また、テキスト伝承の系統において価値をもつ読みだけを収録したいと考える編集者や、個々の読みを校異情報に含めたい編集者、どちらにとっても異読や異読のグループを識別することがその編集者の仕事なので、符号化は有用である。後者の問題である符号化に際しての手続きについては、改善されるべき点も多いが、例えば〈l〉タグに入れ子になっている〈app〉タグの使用に難点がある、という点は既に解決されていることを述べている。
著者は最後に要件⑤ユーザーとの相互運用性についての検討に入る。編集チームと読者との対話を促進する仮想環境の設定は、学術的な議論を強化し,新しい研究を促進し、編集版の迅速な更新を可能にするであろうと、著者は予見する。しかし、「編集者の学術的責任という考え方とどのように折り合いをつけることができるのか」という意識から、「情報をフィルタリングすることを計画すべきなのか」等、検討すべき課題はつきない。
著者はこの論考の結論として、冒頭で掲げられた問いー「SDE のための指針は望ましいのか?」ーに答える形で次のように宣言する。「SDE が紙の版よりも重要な利点を包括」し、「編者を特定の校訂の慣習に従うように求めすぎない場合に限り」そうした指針は望ましい、と。また、この研究で、「校異情報は編集者がテキストの動的な性質をより良く伝え、読者はそれをより容易に把握することが出来るものであることが明らかになった」と述べる。であるならば、「専門的すぎると見なされてきた校異情報モジュールをデジタル形式で表現することは」、学術編集版の作成にとって最大の関心事となると指摘し、それらを構造化する TEI ガイドラインの校異情報を扱う項目の更なる改定を行うことが重要であると述べる。
以上、本文の表現を用いながら要約と紹介を行った。本稿は主に古典作品の学術編集版で重要な機能を持つ校異情報を中心とする話題であるが、近代以降の改稿が何度も行われている作品の編集版を作る場合にも有用な視点を提供している。加えて、この論稿で押さえておきたいのは、『Heliand』の例で潜在的な利用者を増やすために違う学術分野への意識が見られる点であり、そのことからも SDE の利点を活用しきるためは分野を超えた共同が望まれる。
https://sites.google.com/view/dhws2024a/
http://jinmoncom.jp/index.php?CH135
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/
2024年度が始まって1ヶ月が経ちました。今年度から、人文学のデジタル研究基盤に関わる重要な事業が始まったり、本格化したりします。すでに何度もご紹介してきましたのでここでは細々言及はしませんが、そうした事業を通じてこの先数年間に起きることがその後の人文学を方向付けていくかもしれません。これに関連する話題はこのメールマガジンでも適宜取り上げていきたいと思っておりますが、読者のみなさまにおかれましても、気がついたこと、皆で共有した方がよさそうなことなどございましたらご寄稿などをいただけますとありがたく存じます。
本メールマガジン編集室の担当者名を、今月号から表に出す形にしました。後編の下部をご覧ください。これまでには様々な方々にご協力をいただいてきまして、現在は主にこの3名で作成しております。よりよい誌面を目指していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。