ISSN 2189-1621

 

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《巻頭言》「文学部教員から見た人文情報学」

◇《巻頭言》「文学部教員から見た人文情報学」
 (小林正人:東京大学文学部)

 大学生の時なけなしの貯金で買ったMS-DOSのパソコンでawkを学び始めて以来、自
分なりに工夫してコンピュータを人文学に使ってきたため、人文情報学という言葉
をはじめて聞いたときは、かすかな違和感を覚えた。十六、十七世紀にヨーロッパ
の大学を人文主義が席巻したとき、旧来のスコラ的人文学は長い闘争の後、消えて
いったという。人文情報学というときも、ただの人文学と人文情報学の二種類があ
って、前者はいずれ駆逐される遅れた人文学という言外の意味を感じるのは、文学
部教員の妄想だろうか。そう考えていると、文学部の先輩で、筆者よりはるかに先
端的な情報技術の活用をしてこられた苫米地等流先生の記事を本誌10号で読み、人
文情報学の専門家にもよく似た懸念があることを知った。人文学から見える人文情
報学について自分でももう少し考えてみたい。

 文学部というところは、価値観のゆらいでいる時代に人気が出ることもあれば、
社会が安定してくると人気がなくなったりする。さいきん志願者が減ったり、中教
審で人文社会科学系学部が名指しで廃止・転換するよう求められたりすることは、
裏を返せば文学部が必要ないような満ち足りた時代なのかも知れないが、それ以外
にも人文情報学のように、文学部で伝統的に用いられてきたのとは別の方法で人文
学にアプローチする新しい分野の台頭のあおりを受けたという面もあるのではない
か。そうでなくとも社会の問題に対して無力であることの多い文学部に三十年近く
身を置いてきた者として、人文情報学の隆盛を目にして、自分たちの最後のよりど
ころである文献研究まで情報学に持って行かれるのではないかという焦りを感じる
ことがある。

 “The future of employment”という論文が、高度に専門的なスキルも情報技術
によって置き換えられると予言して、労働者の心胆を寒からしめているらしい。そ
れと同じように、かつては文学部で講義を受けてはじめて理解できたことでも、精
度を問わないならウェブで検索すればただちに分かるし、文法や文字すら知らなく
ともコピー&ペーストで検索して外国語の単語や短文の意味を調べられるようにな
った。ギリシャ語の単語を辞書で引くには、動詞ごとにしばしば不規則ないくつも
の基本形を覚えねばならないが、今ではPerseus のword study toolで語形を入れれ
ば活用形を教えてくれる。インド哲学の難解な偈も、サンスクリットでそのまま検
索すれば訳や研究論文が見つかる。かつては入手しにくい古今の名著を揃えた図書
館を使えることが文学部生の特権であり、書庫で調べ物をするのが無上の喜びだっ
たが、今では名著はInternet Archiveで探したほうが早いことも多い。検索をはじ
めとする情報技術は人文学を格段に容易にし、有難い限りであるが、これから人文
学を学ぶ人にとっては、もはや主専攻として選ぶ動機が薄れていることは否定しが
たい事実であろう。苦しい演習に出なくともプラトンやパタンジャリが読めるのな
ら、どうして文学部に進学するだろうか。

 私が専門とするフィールド言語学では、文字記録も録音もなく、言語資料を自分
でゼロから集めねばならないような言語を扱うため、研究者がそれぞれ小規模のデ
ータを集めて単独で使っているケースが多く、さしもの検索エンジンもあまり役に
立たない。その言語を理解できる学生がほとんどいないため、アルバイトを多数雇
って入力させることもできず、みずから録音を書き起こしてメガバイト単位の書き
起こしテキストを作るのが精一杯である。TEIのような共通のフレームワークがある
ことは知っていても、それらを使う動機はまだ強くない。だから、言語学にとって
人文情報学が欠かせないものになるのは先のことだろう、と思っていたが、技術や
リソースの整備によって、以前はほぼ不可能だった研究ができるようになってきた。

 これはフィールド言語学ではなく、文献学での経験だが、サンスクリットで英語
の houses in a village「村の家々」のように場所格句が名詞を修飾することがで
きない、という問題を扱っていたとき、ほかの印欧語でどうなっているか調べる必
要があった。印欧語といってもそれぞれ全く異なった発展を遂げた言語群であり、
たとえば古アイルランド語などは活用が複雑な上、活用の代わりに後続の単語の先
頭音を変える現象があり、訳のない原文なら一行読むのに一日かかることも珍しく
ない。用例を集めるのは到底無理だと思っていたが、ダブリンから古アイルランド
語のタグ付きコーパスが公開されており、読めなくても正規表現検索ひとつで自分
の探している用例を見つけることができた。ギリシャ語聖書から前置詞句の前に名
詞らしい形が出る箇所を抜き出し、対応するゴート語やラテン語聖書と対比すると
いった作業も、聖書学者が整備した電子テキストと軽量言語で容易にできるため、
それらの文法に明るくなくても、各語派を比較することができるようになっている。
コーパス以外でも、分岐学的計算を行って言語の系統樹を作成するなど、新しい情
報技術を活かした言語学の研究を大学院生などが手がけるようになり、のんびり構
えていると置いてけぼりを食ってしまう。新しい手法を開発しいちはやく応用する
人文情報学は目が離せない。

 場所格句の名詞修飾の研究で、人文学についてかねて感じていたもう一つの不安
を思い起こさせられた。この現象は最近の研究書ではあまり論じられていないが、
百年前の文法書を見ると当たり前のように書かれているのである。現代の人文学者
は、情報技術の発達する前と比べて、信じられないほど便利な研究環境にあるわけ
だが、その便利さを存分に活用した研究ができているだろうか?百年前の文献学者
たちは、計算機がなく辞書類も乏しい時代に、世界大戦のような激動に耐えてテキ
スト読解に没入し、文法書や校訂本など、現在の学者たちが分担執筆しても越えら
れないような研究を数多く残した。食糧生産の技術が狩猟能力を衰退させたように、
便利になるほど能力が衰えることは、知らず知らず人文学にも起こっているのでは
ないか。いくら検索が便利になっても、問題意識や着眼力は原典を読む営為から培
われるわけで、原典読解よりもコーディングやソフトの操作法に気を取られがちな
現代の人文学者は、研究の勘が鈍ることのないよう気をつけねばならないと自戒し
ている。

 百年後の人文学では言語のデータはさらに積み重ねられ、人文学の研究はさらに
便利になっていると予想される反面、語学力や読解力など研究者の基礎体力は下が
っているかも知れない。そうであれば、今の私が百年前の大学者に敵わないのと同
様に、百年後の学者の追随を許さない研究をすることも、十分可能なはずである。
それにはテキストを読むことで着眼力を研ぎ澄まし、技術によって置き換えられな
いような独創的な発想ができることが必要だろう。文学部教員として本来の仕事で
ある原典研究と読解力養成を中心にしながら、文学部ならではの着眼力で人文情報
学に貢献できればと思う。

執筆者プロフィール
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小林正人(こばやし・まさと)
東京大学文学部・大学院人文社会系研究科言語学研究室准教授、Ph.D(言語学)。
京都大学文学部、ペンシルバニア大学文理大学院卒。日本言語学会会員。研究対象
はサンスクリットの歴史言語学、サンスクリット伝統文法、ドラヴィダ系少数民族
言語とムンダ系少数民族言語のフィールドワーク。

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