ISSN 2189-1621 / 2011年8月27日創刊
今回巻頭言を担当するというまたとない機会を頂いた。筆者は革新的な技術を開発しているわけでもなく、ビッグデータを扱うわけでもない。このような未熟者が筆を執るのは身分不相応であるが、ここでは筆者が専門とするアメリカ史分野のデジタル技術活用の特徴を書きたいと思う。
『人文情報学月報』第89号・90号に掲載された「Carolina Digital Humanities Initiative Fellowの経験を通じて」でも述べたが、筆者のデジタル・ヒューマニティーズとの出会いはノースカロライナ大学チャペルヒル校(University of North Carolina at Chapel Hill)留学時代に出会ったデジタル・マッピングであった。当時同校のデジタル・イノベーション・ラボ(The Digital Innovation Lab、以下 DIL)では、DH Press というオンライン・マッピングを目的としたワードプレス・プラグインを開発していた[1]。 こうした例にあるように、マッピングはアメリカ史研究のデジタル技術活用における大きな特徴である[2]。
ではなぜアメリカ史研究ではマッピングが際立っているのだろうか。ジョージ・メイソン大学(George Mason University)のスティーブン・ロバートソン(Stephen Robertson)はまず、「社会史家やラディカル・ヒストリアンがデジタル・ヒストリーの初期実践者」であったこと、彼らが「教室やより広範な社会に到達することを目的としてウェブを活用」してきたことを挙げている。彼はそうした研究者の志向に加え、「空間論的転回」そして「ウェブ・マッピング・プラットフォーム」が「様々な空間データの可視化」を可能にしたことが、分野に影響を及ぼしていると論じた[3]。ロバートソンの指摘は、アメリカ史研究においてマッピングが歴史の公共性に関する議論と対になっていることを示す。
実際、アメリカ史におけるデジタル・ヒストリーはパブリック・ヒストリーと親和性が高い。アメリカの文脈で言及されるパブリック・ヒストリーとは、元々20世紀初頭の国立公園局設立などを契機とした、政府機関に属する歴史家の仕事や史跡保存のための組織化までさかのぼる。だが、1970年代の不況を機に博物館など大学外への就職を目指すプログラムがアメリカの大学院に設置されると、これらはパブリック・ヒストリーと呼ばれるようになった。パブリック・ヒストリーはまた、一般市民向けのプロジェクトの総称にも使用される。こうした複雑な背景により、用語の定義に関しては度々論争となるが、パブリック・ヒストリーが大学内外の様々な専門家や機関、企業、利用者、利害関係者と学際的共同作業を進めていく点については、個人研究の多い歴史学の中で一線を画する特徴と見なされている[4]。デジタル・ヒストリーも多くの場合、共同作業が不可欠である。更に、技術の発達に伴い成果をインターネット上で公開できるようになったことで、パブリック・ヒストリーはデジタル・ヒストリーと深く結びついた。こうした非専門家や一般市民を対象としたデジタル・プロジェクトは「デジタル・パブリック・ヒストリー」とも呼ばれる[5]。
マッピングはデジタル・パブリック・ヒストリーにとって有用なツールの一つである。特に史料が持つ地理情報を視覚化することで様々なデータを表現することは、それ自体が利用者の関心を高め、新たな議論を生み出す強みを持っていた。DIL が開発を進めていた DH Press も、非専門家でも扱える平易なシステム構築を目指した。そうした意味で、デジタル・パブリック・ヒストリーを強く意識していたと言える[6]。こうしたマッピングの強みは双方向性である。非営利団体イコール・ジャスティス・イニシアティブ(Equal Justice Initiative、以下 EJI)が製作した「アメリカにおけるリンチ」(Lynching in America)プロジェクトでは、1877年から1950年の間に全米で起こった黒人リンチ事件をマッピングしている。事件数は国・州・郡規模で表示され、一部の被害者情報も学ぶことができる。このプロジェクトは EJI がアラバマ州モンゴメリーで運営するレガシー博物館(The Legacy Museum)の展示と連関しており、マッピングがアメリカ社会への問題提起の手段となっている[7]。
デジタル・パブリック・ヒストリーと共に成長したマッピングは、翻ってアメリカ史研究全般にも影響を及ぼしている。メリーランド大学ボルティモアカウンティ校(University of Maryland, Baltimore County)のアン・サラ・ルービン(Anne Sarah Rubin)は南北戦争の記憶に関する著書出版に伴い、「シャーマンの進軍とアメリカ:記憶のマッピング」(Sherman’s March and America: Mapping Memory)プロジェクトを立ち上げた。これは南北戦争時のウィリアム・T・シャーマンの海への進軍を、将軍本人・民間人・観光・兵士・フィクションの観点からマッピングしたものである。プロジェクトに関わる「史料、画像やエッセイのアーカイブを作るよりも、更に解釈的なアプローチ、より実験的なアプローチをとる」ことを目的にマッピングを行ったという[8]。こうした試みは、伝統的な歴史叙述に加え、「コンセンサスから離れ複雑な過去の受容を促す、歴史の記憶研究の新しい方向性へ訪問者を導く」ものとして評価された[9]。
こうしてアメリカ史研究ではデジタル・ヒストリーとパブリック・ヒストリーの相互作用の中、マッピングが一定の位置を占めることとなった。だが最後に、テキスト分析も近年急速に進んでいることに触れておきたい。2014年、キャメロン・ブレヴィンス(Cameron Blevins)が『ヒューストン・デイリー・ポスト』(Houston Daily Post)のテキスト分析を基に『ジャーナル・オブ・アメリカン・ヒストリー』(Journal of American History)に論文を発表した。これは新聞から地名の固有表現抽出をすることで、19世紀末のヒューストン市民が国土をどのように理解したか解き明かす試みである。マッピングではなく、テキスト解析によってアメリカ人の地理的想像力を描くことは画期的であった[10]。ただこうした研究が、マッピングのようにパブリック・ヒストリーと密接な関係を持つかは未知数である。
帰国後再びアメリカ学術界の外部者となってみると、改めてユニークな環境に身を置いていたと感じることも多い。マッピングを続けつつ、更に様々な手法を学ばなければと思いを新たにしている。
山下泰平氏の『「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本』(柏書房、2019)が話題となっている。これは、もともと氏のブログ記事[1]が話題となったところから出版社の編集者が声をかけて、「明治娯楽物語」というおおきな枠組みのなかで語ったものである[2][3]。
注[3]でも指摘されているが、本書の特徴は厖大な資料の多くを国会図書館デジタルライブラリから得ているところで、過去にも話題になって筆者もおもしろく読んだ記憶がある(注[4]など)。ブログ記事における特徴的なスタイルとしては、おもしろいところの引用をする際に、デジタルライブラリから直接文字画像を抜き出してくるところで、筆者だけだろうが、そのままの文字の姿の方が面白かったりした。引用元の明記はされておらず、本人すら忘れていることが多いということであった[2][5]。書籍化に際して、版面の図版はほとんど削除されて文字に書き起こされている。
氏は、これを研究と位置づけているわけではないし、中を読んでいっても「〜だから仕方ない」という断定が決めぜりふであるくらいで、したがって、本書の魅力としては、「明治娯楽物語」という見立てで、どれだけ個々の作品としては現代のわれわれを面食らわせるだけ(に見える)作品が面白くなってくるかというところにあろう。そういう意味で、本書は評論、あるいは享受という観点から評価することができるのではないか。
博捜の人というのは古来絶えないのであって、人文学というものの多くがこういう心性に発することはあきらかである。みずから探究するアマチュアイズムのなかで、師を得て研究と呼ばれるものに足を踏み出す人もいる。山田忠雄がみずから野に下ったのち、高橋愛次や貞苅伊徳などに指導を仰がれる身となったことが思い起こされる。市民と向き合うデジタル資源を考えるとき、市民科学のように、研究の文脈で評価の対象となるものをつい考えがちである。しかしながら、本書は、もちろん国会図書館デジタルライブラリだけではなく個人で購入した古書なども多いことは示されているが、デジタル資源を研究とは異なるかたちで読み込みまさに享受して成立した作品となっており、科学者がアマチュアの轡を引くイメージのつきまとう市民科学以外にデジタル資源の利用のかたちがあることを力強く示している。
もちろん、本書が研究を無視しているわけではなく、参考文献にもいくつかの論考が引かれるが、挙げられた数からいってもメディア論や文学研究での蓄積をふまえたものになっているようにも思えない。歴史的事実についても慎重を期すような叮嚀さは窺えない(無視しているわけではないことは、注[2]にも述べられている)。それよりも、「明治娯楽物語」が有するとされた勢いが重視されており、畳みかけるような文体によって豊富な図版とともに本書は展開していく。
図版の多さもまた本書の魅力のひとつといえよう。近代のものをいま復刻して出版するとき、編集の煩雑を厭って図版が削られてしまうのに対して、デジタル資源は、おおく写真複製のまま提供されることで本文が必ずしも読みやすくはないいっぽうで、原本を彷彿とさせるところをよく利用しているといえる。公開されたデジタル資源を起点に展開している利点として、第三者がかってにそこから広げてしまうことがある。本書が刊行されてまだ2か月ほどにすぎないが、すでに国会図書館デジタルライブラリで公開されているコレクションが(IIIFも活用しつつ)神崎正英氏によって作成されている[6]。非常に興味深い展開ということができよう。
本書によって、われわれは、明治時代の大衆文学をデジタルライブラリにあるものということを超えて享受することが可能になった。本書にあらわれるような試みがあらかじめ予見できるのであれば、苦労はしないが、それでも、文化資源のデジタル化が市民に奉仕する可能性がどこにあるのかをまさに語るものではなかろうか。
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2019-7.html
毎年6月頃、カナダのヴィクトリア大学ではデジタル・ヒューマニティーズ(DH)のサマースクール、DHSI(Digital Humanities Summer Institute, http://www.dhsi.org/)が開催されている。DH には欠かせないリカレント教育の場として2001年に始まったこのイベントは、2018年には800名を超える参加者が50以上のコースに分かれてそれぞれのテーマについて学習するという、DH 分野では世界最大級のサマースクールになった。きちんと数えたわけではないが、1コースあたり2名以上の講師が担当していることが多く、総勢100名近くということになりそうだが、そこには北米だけでなく欧州で活躍する著名な DH 研究者達も含まれており、その講師陣の幅広さについても注目されるところである。旅費の補助や大学の安価な宿泊施設が提供されることもあり、北米で DH を始めようと思った人や最近の動向や気になるテーマについて勉強してみたいという人が、とりあえずこのDHSIに参加してみる、というのが一つの定番になっているようである。コースの最後には修了証が渡され、その事項については一定の学びを経ていることを提示できるようになっている。この種のサマースクールは、他にもオックスフォード大学やライプニッツ大学のものが有名であり、筆者もかつて、2012年頃にヴィクトリア大学とオックスフォード大学に招待していただいて、それぞれの教え方・学び方・カリキュラム構成など、色々と勉強したことがあった。
ここで行われる DH の講習は、抽象的なものから具体的な実習、ディスカッションなど、コースのテーマに応じて内容は様々である。DH 全体の入門と TEI (Text Encoding Initiative)の入門は定番として提供されており、これに加えて、テクストマイニングや Linked Open Data、GIS、ディープラーニング、3D、音声などの技術についてそれぞれにコースが用意され、それを人文系向けに扱うことをテーマとした実習込みの学習ができるようになっており、また、歴史史料や学術編集版にデジタル技術を適用することに特化したものがあり、一方で、人種問題やフェミニズムを DH で扱うものもあれば、プロジェクトや DH センターを運営するためのプログラムというのもある。DH に関することならなんでも学べるのではないかと一瞬錯覚してしまうほどの充実ぶりである。
このような中で、ほとんどのコースは DH 一般を対象としたものであり、特定の言語文化に焦点をあてたものはおそらくこれまでなかったように思われるが、2019年はそこに、日本文化を対象とした DH のコースを設定していただくことができた。DH は本来、多様な人間文化を対象とする研究であり、それぞれの言語文化の個別の状況に適切に対応できなければならないはずである。そうだとしたら、様々な個別の言語文化を対象とした DH の手法と実践を積み重ねていくこともまた、DH をより広い世界に向けて普遍化していくには必須のことである。
もう一つの文脈として、海外における日本文化研究への支援が十分でないことがこのところしばしば指摘されるようになっており、そのような状況において、デジタル資料を通じた日本文化研究の手法が海外に十分伝わっていないこともまた、課題の一つとなっていた。いくらデジタル資料を公開して海外から利用できるようにしたとしても、適切な利用の仕方がわからなければ、支援として十分であるとは言えないだろう。デジタル画像が公開されたといってもそれをどう活用すればいいのか、そもそもそれがどこにあるのか、和暦はどのようにして西暦に換算すればいいのか、日本語のテキストデータを得られたらそれをどのようなツールを使ってどう分析すればいいのか等々。そういった情報は、今のところ日本国内でさえ十分に共有されていないことであり、海外ではまったく不十分である。この種のことに関しては、海外、とりわけ、北米における英語資料を対象とした DH の普及度合いからするとその差は際立ったものとなっている。また、東アジア資料に関しても、とりわけ中国学が近年着々と進展してきており、デジタル資料の分量についてはすでに凌駕されているようであるものの、それを研究資料として活用する技術については未だ日本に一日の長があるように思われるが、海外においてその恩恵が十分に広まっているとは言いがたい。筆者が北米においてこの状況をまさに実感したのは、2014年3月にフィラデルフィアで開催された北米日本研究司書の年次大会で日本の DH についての講演をさせていただいた折に現地の方々のお話をゆっくりおうかがいしたことがきっかけであり、その後、海外の日本研究分野に日本の DH の成果を広めることで日本研究を支援していくことは、筆者としても一つの重要なテーマとなってきていた。
日本文化に関する DH コースが本年の DHSI において提供された背景には、そのような状況があった。この日本文化 DH コースは、情報処理学会人文科学とコンピュータ研究会と日本デジタル・ヒューマニティーズ学会との共同事業として実施され、両研究会・学会から6名の講師が参加することとなった。初めての試みになるため、1ヶ月前のゴールデンウィークには国立女性教育会館にて3日間の事前合宿を行って内容を相互検討した上で本番に臨んだ。(事前合宿に際しては、若手研究者・大学院生の方々にご協力をいただいた。)
内容としては、初日は、少し時間をかけた参加者・講師の自己紹介の後、日本研究のためのデジタル資料一般についての概説を各講師が行い、その後は、近年めざましい成果を挙げつつある人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)の取り組みについて北本朝展氏(同センター長・国立情報学研究所)が講義を行い、翌日は、その続きの後に、山田太造氏(東京大学)が史料編纂所を中心としたデジタル化歴史史料に関する講義と、日本語テクスト分析についての講義・実習を行った。ツールとしては、近年日本語にも対応した Voyant-tools が用いられた。3日目には、筆者が日本語向けの TEI の簡単な紹介を行い、その後、IIIF についての講習が中村覚氏(東京大学)によって行われ、さらに、ICP(IIIF Curation Platform)について、北本朝展氏による実習が行われ、これを用いた資料作成が最終日の発表課題として参加者に課せられた。4日目には、関野樹氏(国際日本文化研究センター)による時間情報解析ソフトウェア Hutime の実習を含む、時間情報の扱いについての講義と簡単な実習が行われた後、橋本雄太氏(国立歴史民俗博物館)による「みんなで翻刻」を中心としたクラウドソーシングについての講義が行われた。最終日には、Linked Data についての中村覚氏による講義の後、ICP を用いて作成した各参加者による発表が行われ、それぞれの専門に基づく、深くかつバラエティに富んだ発表が次々と行われ、参加者の方々の日本文化に対する理解の深さ、新しい枠組みへの柔軟性、そして、プレゼンテーションの巧みさに感服させられた。最後には、参加者の方々には DHSI からの修了証をお渡しし、記念撮影をして散会となった。
正式に参加した11名の受講生には、大学教授や大学院生だけでなく、日本研究司書やエンジニアなど、幅広い人々が含まれていた。コース全体の流れとしては、講師が一方的に情報提供するだけでなく、参加者とのインタラクションの中にそれぞれの要素が組み込まれていくような形で進んでいくこともあった。これは、ミシガン大学の Paula R. Curtis 氏をはじめ、特に熱心な参加者数人が折に触れて北米の日本研究者の関心という観点から流れをリードしてくださったことも大きい。休憩時間にも活発な質疑応答がそこここで繰り広げられ、わざわざ遠いところまで来た甲斐があったと感じたところであった。折しも、Curtis 氏は、Digital Humanities Japan(http://dhjapan.org/)というサイトを立ち上げたところでもあり、今後、このサイトを通じて日本の DH 研究者との連携を作っていく足がかりにもなったように思う。
こうした機会を遠隔地で提供する場合、会場や設備の用意から宣伝、当日の仕切りなど、ロジスティクスの難しさが大きなハードルになるが、DHSI という安定したプラットフォームを利用できたことで、コース開催者側は内容面の充実に集中できたことも特筆すべき点であった。日本でもじんもんこんシンポジウムや JADH シンポジウム等で半日程度のワークショップは開催されているものの、DHSI のようなプラットフォームが用意されれば研究により直接的につながるような学びの機会を得やすくなるので、今後の可能性について広く検討していく場ができていけばと思っている。ただ、合宿形式になってしまうことのデメリットや、開催地を決めてしまった場合の遠隔地からの参加の難しさも考慮する必要があるだろう。
ちょうど、ドイツ・ゲッティンゲンで開催されている IIIF カンファレンスが終了したところです。特に欧州でのこの種のイベントの盛り上がりは大きく、 200人以上の、文化資料に関わるエンジニアとデジタル化担当者の方々が集まって様々な議論が展開されていました。特に、ゲッティンゲンは TEI を用いたデジタル学術編集版の作成が盛んなようで、それを IIIF に応用するという発表が盛り上がっていました。詳細は来月のイベントレポートにて掲載される予定ですのでお楽しみに。
IIIF カンファレンスでご発表されていた岡田一祐氏が、7月下旬に文学通信から『ネット文化資源の読み方・作り方 図書館・自治体・研究者必携ガイド』刊行されるとのことです。このメールマガジンに連載された記事をベースにご執筆されたそうですので、こちらも楽しみですね。
(永崎研宣)