ISSN 2189-1621 / 2011年8月27日創刊
デジタル技術なしでは筆者に何かが研究できるとは思いもしなかっただろうと常々思う。筆者の専門は言語学で、日本語・琉球諸語を中心とした文法の研究を行っており、特に青森南部方言と琉球八重山白保方言、そして東京方言を専門としている。日常的に話すことばは、空気振動を通じてその場にいた数名の鼓膜を少し震わせ(手話の場合は光の反射を目に映し)、そして消えてしまう。これを保存するためには文字として書き留めるしかなかったが、録音・録画技術の登場により、音声や話者の姿をそのまま記録することが可能となった。さらにデジタル技術によりデータのコピーも容易になり、ハードディスクに入れて持ち歩いたり、インターネット上に公開することも簡単にできる。検索を駆使し、大量の用例からある表現の用法を記述し、母語話者でも気づかないような些細な用法の違いも発見できる。(音声・画像認識の技術も日々進歩しているが、特に方言の場合は人手による書き起こしが2021年時点でいまだ主流であり、この書き起こされた文字が主な検索対象となる。)実際、筆者とその同級生は、聖書の対訳だけを元に用例検索を駆使してソロモン諸島で話されている Wala 語の記述を行った(Lovegren, Mitchell, and Nakagawa 2015)。筆者が琉球の諸言語の研究者と共同で出版したテキストデータベース(加治工・中川2021; 宮良・中川2021)にも大量の例文と日本語訳が含まれているので、同様の使い方ができるのではないかと期待している。また、フィールド調査を行った者なら誰でも経験があることと思うが、インタビューの最中は次に何を質問するかという課題に集中するあまり、質問の答えに関して深く考えることができない。考えることができるようになるのは、調査旅行から戻ってきて録音を聞き直し、メモを見直しているときであろう。このような見直し、聞き直し、そして用例の検索なしに筆者に研究が遂行できるとは到底思えない。この意味で、デジタル技術は筆者の研究にとって必須の、生命線となる重要な技術である。
しかし、特に動画の扱いや公開に関しては気をつけなければならない点がある。1つめは、動画でも映しきれていないものがある点である。八重山諸島(そしておそらく琉球列島の広範囲)においては、方角が重要な役割を果たす。伝統的な家屋はほぼ必ず南西(現地のことばではこれが “南” に当たる)に面して建てられており、家の間取りや家畜を飼う場所まで厳密に決まっているだけでなく、この方角を利用してたまたま机の上に置いてあるものの位置を伝えるときにも、「左右」や「向こう側」のような表現ではなく東西南北によって表現する(柴崎・武黒2007; Núñez, Celik, and Nakagawa 2019)。例えば、「島胡椒の南にあるコーレーグースを取ってくれ」などという発話が聞けるかも知れない。日常的な会話においても、話者にとってはこの東西南北(これに加えて十二支の方角)に従って身振り手振りを行っているようで、会話を録画する際のカメラの方角は記録しておくべき重要な情報であった。致命的な方向音痴でもある筆者は、これに気づかずに動画を撮り続けてしまった。しかし、単に GPS 機能をオンにしておけば良かったのかというと、そうとも言い切れないのが2つめの点である。調査はふつう話者の自宅にお邪魔して行われるため、GPS 機能をオンにすると、話者の自宅が特定されてしまう。また、話者の顔や身振り、家の中の様子などを詳細に記録してしまうため、動画は気軽には公開できない個人情報の宝庫となる。話者宅の情報、話者の肖像など、特に動画は情報が特定されすぎてしまうが、音声データだけからも個人を特定できないとは言い切れないだろう。位置情報や顔の情報をぼかす技術もあるだろうが、そのような情報を使って画期的な発見が生まれる可能性もあり、無闇に失ってしまうのは(記録できてしまった以上は)惜しいと感じられるだろう。またこれは個人的な感傷であるが、すでに亡くなってしまった人を動画で何度も再生して働かせるのは申し訳ないような気分になる。
まとめると、筆者の研究にとってデジタル技術は生命線であり、調査の見直しやデータのコピー、公開、用例の検索など、あらゆる面で活用している。しかし当然のことながら全てを記録できているわけではないことに留意すべきである一方で、特に動画には詳細すぎる個人情報があるので取り扱いに注意が必要である。
2021年5月26日、株式会社写研より、写研アーカイブが公開された[1][2]。写研は、写真植字機専業メーカーとして20世紀東アジアの文字印刷史上重要な企業である。写真植字機、通称写植は、金属活字という物理的実体が占拠する活字印刷と異なり、ガラス盤に文字をかたどり、それを写真現像することで印字を得られるという点で圧倒的な効率をもたらし、活版印刷の占めていたシェアの大部分を奪った技術である。写植機のシェアで劣ったモリサワが、Apple と手を組み、コンピューター組版(DTP)で一大シェアを築き上げ、写植に固執したかたちとなった写研と趨勢を異にしたことは、記憶に新しい。写植の凋落は著しく、写植機もいまではお払い箱になるばかりで、このまま写植機とともに写研の資産も失われるかと思われていたが、今般、モリサワと手を組み、コンピューターフォントのリリースに取り組むことが発表され[3]、かつての DTP 嫌いを知るひとびとから驚きの声をもって受け止められていたところに(そして、若者からは写研って何?という反応を受け)、このアーカイブが公開されたかたちである。
さて、アーカイブは、一般に、記録範囲と、関連する記録の充実度とで評価されるべきものである。以下の内容は、[2]によれば、今後の拡充を予定しているということであるので、そこへの期待と言い換えてもよい。
読者のために、写植の仕組みについて、一言触れておく必要があろう[4][5]。写植機は、ガラス盤にかたどられた文字を写真現像して得られると言ったが、じっさいには、それは初期の形態で、写植機じたいはコンピュータ化へ向かっている。くわしくは[4]や[5]に拠られたいが、文字盤はメインのもののほかに、需要がかぎられる文字を載せたサブプレートと呼ばれるもので補われるしくみであった。その後、コンピュータ化が進み、最終的には、アウトラインフォントも作られている(電算写植という)。また、明朝体やゴシック体、太さなどごとに文字盤が分かれるのは現在のコンピューターフォントと同じで、その部分的な改善も行われてきている。
さて、だいいちに、写研アーカイブは、書体の記録という点が主であることを指摘できる。全貌の記録という点でいえば、295点というのは現状把握できる全体なのかいなかは、記載がないが、いちおう写研の書体の記録にボランティアとして取り組む方々の記録と照らして同数であることを記しておく[6]。収録されるもののなかみとしては、漢字を具備したものであれば、「永東国書調風愛機」の8字と「あなふのアタユシ」の8字、仮名のみのものでは「いろはにホヘトチあなふのアタユシ」の8字の印字見本と、附随する記録類である。印字見本では、片仮名のみの書体は平仮名が片仮名になっている。漢字を具備する書体では、さらに組み見本も掲載されている。欧文は組み見本にも現れず、記号類も欠く。全文字を見られないのは、今後書体販売を予定しているからかとは思われるが、欧文を欠くのは、権利関係の整理が遅れているためであろうか(欧米写植メーカー開発の書体も多く取り入れられていた)。とはいえ、写研が他社の和文活字書体を写植化したものは掲載されているので、判断としてよく分からないところではある。ついでのかたちになるが、ハングルや繁体字・簡体字への展開も記録が公開されることが願われる。
記録された内容としては、書体名、ファミリー名(デザイン上の特性を共通する一群の書体)、内部管理コード(文字盤あるいは電算写植でのコード)、発表年と、仮名書体のばあい、想定された組み合わせ対象の漢字書体である。仮名書体かどうかは明記はなく、印字見本のありかた、組み合わせ書体の有無などから判断されるのみである[7]。長体や扁平などの変形を前提とした書体には、備考として記載がなされている。文字の収録範囲、改定の記録、デザイン関係者の記載は現状ない。たとえば、[4]によれば、コンピュータ化には幾段階かがあったようであるが、最終的な電算写植システムで用いられた際のコード(タショニムコード)がなければ、まったく電算写植への搭載が行われていないのかなどといったことも、分かるようにはなっていない。写研では、石井賞創作タイプフェイスコンテストとして優秀書体を募って商品化を行ったものが何点もあるが、そのような発売に関する記録もまったく行われていない。
写研アーカイブは、文字企業の書体アーカイブとして初の試みであり、その点は高く評価したい。同様に自社書体の記録に努めている例として、大日本印刷の秀英体を挙げられようが[8]、同社ではアーカイブというかたちでの整理はまだ成っておらず、ここに一日の長があると言うことができよう。ただし、大日本印刷では書体の開発の歴史にかんする調査研究が進んでおり、その点で優っていることは附言されねばならない。
このような、現に商品であり、また歴史的な存在でもあるもののアーカイビングは、営利企業としての利益にも直結する点であって、全貌の記録というのも経営判断が伴うのはやむを得ないことである。とはいえ、商品価値を落とさない(あるいは高める)記録というのもとうぜんあり得る。たとえば、文字盤の保存・保全はどれだけがなされており、見せる・見せないは所有者の判断にせよ、字種はこれだけあるということが記録されているだけでも、アーカイブとしての価値はまったく違ってくる。
文字の改定や拡張の記録も可能なかぎりなされてほしい。たとえば、[9]では、JIS 漢字規格の改定に伴う写植の文字の変更が記録されているが、写研の文字が JIS C 6226-1978の規格表で例示字形として用いられたことをしても[10]、公にかかわる記録として重要である。また、書体史の観点からも、字体変更などを伴わない、造形の見直しなどの記録が、いつ(願わくばだれによってかも知りたい)なされたか記録の有無があるだけでも裨益するところは少なくない。もちろん、写研の企業史や、当時の報道、あるいは関係者の証言があるのは承知の上であるが、アーカイブは、そのような情報を貪欲に取り込んでこそ生きてくるものと考える。
商品のアーカイブは、商品カタログではないというところから、やはりはじめられねばならない。商品の歴史をどう記録していくかという視点を大事に、今後の発展を願うものである。
1945年、エジプト中部のとある農村地帯で農夫ムハンマド・アリー・アッ=サマーンが土中に壺が埋まっているのを見つけた。その壺を開けてみると中から13のコーデクスが出てきた。農夫はそれらのコーデクスを自宅に持って帰り、売却を試みたが、なかなかうまくいかなかった。そうこうするうちに、13のコーデクスの一つは、ほとんどのページがその男の母によってかまどで燃やされてしまった。その後、買い手が見つかり、様々な人の手をコーデクスたちは渡り歩いた。そのうち、後にコーデクス I(図1)と呼ばれるコーデクスはヨーロッパへと渡り、最終的には心理学者カール・グスタフ・ユングのもとにたどり着いた。そのため、このコーデクスはユング・コーデクスと呼ばれた。一方、残りの12のコーデクスはエジプト国内に留まった。最終的にユング・コーデクスを含め13のコーデクス全てがエジプト政府によって回収され、現在カイロのコプト博物館に収められている。
ユング・コーデクスの研究を端緒に欧米の研究者により、ナグ・ハマディ文書の重要性が確認された。特に今までギリシア語断片しか見つかっていなかった「トマスによる福音書」などの未発見の福音書が含まれており、学者やメディアの注目を集めた。キリスト教の新約聖書に入る書物は、キリスト教が成立した1世紀から徐々に形づくられ、395年のアレクサンドリア主教アタナシオスの復活祭に際しての手紙でほぼ確定した。ただ、それまでに、多数のキリスト教の文書が作られ、正典の候補となった。キリスト教内部でも様々な宗派があった。この中で、グノーシス派と呼ばれるグループは、様々な福音書や黙示録、その他教典を生み出した。
ここでは、多くを語れないが、グノーシスとは、ギリシア語、またはコプト語におけるギリシア語からの借用語で知識・認識のことであり、この世界の真実・本来的自己の認識のことである。この認識を得て、偽りの造物主が造った悪しきこの宇宙を抜けだし、世界の真の創始者である原父(プロパテール)が統治するプレーローマの世界へ魂を解脱させることがグノーシス主義者の目標である。といっても、グノーシス主義の宗派にはヴァレンティノス派、バシレイデス派、セツ派など様々なものがあり、教義はかなり異なるが、反宇宙的二元論で共通している。グノーシス派は、キリスト教の主流派と比べれば、密教的であり、本来的自己の認識を救済とするため教団組織は必要としなかった。
福音書(エヴァンゲリオン)とは、救世主であるナザレのイエスの言行録であり、彼の教えがそこに記されている。現在、キリスト教の諸教会が用いている新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書が収録されている。これらは、アタナシオスなど「正統派」の教会が認めた福音書だが、認められなかった福音書も多数存在した。ナグ・ハマディ文書では、正典に入れられなかった福音書がいくつか収録されている。その中でも、最も注目されたのは「トマスによる福音書」で、これは、イエスの語録集であり[2]、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書に共通する部分があるものの、それらにはないイエスの言葉も収録されている。共観福音書のうちマタイとルカは、イエスの語録集であると仮定される、未発見の Q 資料とマルコ福音書から作られたとする説があるが、トマスにだけ残るイエスの言葉が、Q 資料由来の可能性があるとして新約聖書学で大いに議論され、インパクトを与えた。他のナグ・ハマディ文書も、初期キリスト教の様々な宗派、思想を知る上で大変重要な文献となり、この文書が初期キリスト教思想史研究に与えた影響力は大きい。今回、ナグ・ハマディ文書とその研究にまつわる1950年代から1970年代頃の写真をクレアモント大学院大学が公開した。
クレアモント大学院大学はカリフォルニア州ロサンゼルスの東に位置するクレアモント市にある。ここには、リベラルアーツカレッジの名門校ポモナ・カレッジなど、複数の大学であるクレアモント・カレッジズがあり、クレアモント大学院大学もその一つである。この大学院大学はマネジメント学で著名なピーター・ドラッカーが教鞭をとっていたことで有名である。ここにはキリスト教学の研究所があり、ジェームズ・A・ロビンソンという初期キリスト教学の世界的な権威が在籍したほか、現在は、ガウダート・ガブラという世界のコプト学の第一人者の一人が在籍し、アメリカにおける初期キリスト教学・コプト学の一大拠点となっている[3]。
「クレアモント・デジタル図書館」(Claremont Digital Library)はクレアモント・カレッジズが提供する様々なアーカイブの総合ポータルである[4]。中にはアメリカにおける日系移民の戦時中の強制収容、ドラッカーの資料、スリランカの仏教遺跡、日本美術など、2021年6月20日現在、76のアーカイブがある。画像の IIIF マニフェストも提供されている。コプト関係では、Claremont Coptic Encyclopedia が有名である[5]。これは、1991年に出版された Coptic Encyclopedia のウェブ版である。この百科事典は、215名のコプト学者が項目を執筆したコプト学の百科事典である。
この76のデジタル・アーカイブの中に、ナグ・ハマディ文書の発見・初期研究当時の関連写真をアーカイブ化した Nag Hammadi Archive があり[6]、ここには3,284点の展示物が IIIF マニフェスト付きで公開されている。これは、クレアモント大学院大学の教授であったジェームズ・ロビンソンが、1973年にエジプトにナグ・ハマディ文書の調査に行ったときに同行した バジル・プシルキス氏が撮った白黒写真が中心となったアーカイブである。ユネスコのプロジェクトがファクシミリ版を出版する前のナグ・ハマディ文書のページの写真があるほか、ロビンソンと文書の管理者やコプト正教会の聖職者らとの会合の写真、1973年当時のエジプトの写真など、ロビンソンが調査に行った当時のことを知るための貴重な写真を見ることができる。また、1973年以前の関連写真も多数あり、著名なコプト学者がナグ・ハマディ写本を研究する風景(図2など)や研究会合の写真などもある。
ロビンソンはこの後、ナグ・ハマディ文書に関する様々な研究成果や一般書を世に出し、初期キリスト教学の第一人者と認められる存在となる。このアーカイブは、写本の写真という、よくある文献のデジタル・アーカイブだけではなく、当時のエジプトの風俗や、写本にまつわる様々な会合・土地の写真、ロビンソンら当時の初期キリスト教学者やコプト学者らの研究風景など、当時のエジプトと研究の様子を伝える貴重なアーカイブである。このアーカイブでは IIIF マニフェストを提供しているものの、アーカイブサイト上で画像を表示するビューワーは IIIF 専用のビューワーではないが、IIIF にも対応している OpenSeadragon である[7]。IIIF 専用のビューワーとしては Mirador、Universal Viewer、IIIF Curation Viewer など優れたものがあり、これらに本アーカイブの IIIF マニフェストを与えることで、他の機関の初期キリスト教の IIIF 資料と対照させたり、注釈付きで表示したり、様々な IIIF に準拠したデジタル・アーカイブから集めた初期キリスト教関連資料を一箇所で表示・比較できるポータルを作成するなど[8]、二次利用されていくことが期待される。
来月はいよいよ10周年、120号の刊行となりますが、偶然にもその月に、本メールマガジンのこれまでの掲載記事を元にした書籍を文学通信から刊行していただける ことになりました。『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』というタイトルで、 主に欧米圏の DH に関する論考を集めたものです。研究から教育、実践まで、様々な話題が一堂に集められ、掲載時からさらに手が加えられ、索引や地図が付いたり、用語解説も 少し手厚くなっておりまして、メルマガで読むのとはひと味違ったものがあるかもしれません。DH を知り合いに紹介するときなどにもお役に立てていただければと 思っております。
(永崎研宣)